なぜ元号の典拠は「中国の古典」であり続けているのか

元号を考える②
堀井 憲一郎 プロフィール

また、われわれはオリジナルの文字を持っていない。中華文明圏らしく中華の文字を使い続けている。

そういう国で「元号」はどうやって決めるのか。

出典は、基本、中国に伝わる古い文献から取られている。しかたがない。

中国の古典に典拠しなければ、そのポイントにおいて「やはり野蛮な国である」と指摘される恐れがある。だから中国古典に典拠したほうがいい。そのスタイルでやっている。

「かがやき元年」ではいけないのか

問題は、本家の中国大陸の王朝が帝王制を廃し、元号もやめてしまったところだ。

清王朝が終わったのが1911年。そのあと、いくつかの揺らぎはあるが(いくつか年号が使われたことはあるが)、基本、中国中央政府は元号を廃してしまった。

皇帝がいないからだ。

 

いっぽう。

わが国は、ずっと使っている。それは天皇家が続いているからだ。大化の改新を起こした中大兄皇子は、いまの天皇陛下のご先祖である。「易姓」ということが起こっていない。7世紀から「日本」であり、21世紀も「日本」である。

ちなみに中国は、「唐」があって「宋」があって、元、明、清とあって、これらはだいたい同じ場所を支配しているけれど、まったく別の存在である。つながりはない。言ってしまえば「別の国」だ。彼の国は覇者の国であり、国のトップとシステムそのものが、一定時間ごとに入れ替わることになっている(それのほうが野蛮ではないのかとおもってしまうが、それはあまり口に出して言うものではない)。

本家の元号がなくなり、真似をした分家だけが続けている。それが21世紀だ。

いまわれわれは「野蛮ではない」ということを中国人に示すため「四書五経など中国古典にも通じている」と示す必要もなく、そこから年号の文字を選ばなくても誰も困らない。

でも、テレビをぼんやり見ていると「日本にも古典がたくさんあるのだから、そこから取ってもいいんじゃないか」というぼんやりしたことを言ってるコメンテーターがいたので、あまりぼんやり見てる気分にならなかった。

 

われわれが持つ「ヤマトの人が書いた古典」は、元号の典拠になるのだろうか。

元号を「かがやき元年」とか「なごみ元年」というようなヤマト言葉で付けるのなら、それも可能だろう。それができたらおもしろいけど、刺激が強すぎる。どうしても「漢字二文字」を守ろうとするなら、ヤマト言葉を典拠にするのはむずかしい。このジレンマはきちんと意識しないといけない。できれば国民共有のジレンマであって欲しいのだが、そこまで関心が高いわけではなさそうだ。

わが国の公式文書は、ずっと「漢字だけ」で書かれていた。かなが一切使われていない。7世紀ころから19世紀にかけてだいたいそうである。

調べものをしていると、そういう文書を見る機会がある。なんか、ちょっと奇妙な文書である。

言ってみれば「かなり無理して漢字だけで書いている」のだ。