北京の孔子廟〔PHOTO〕iStock

なぜ元号の典拠は「中国の古典」であり続けているのか

元号を考える②

➡︎【前編はこちら】

日本を治めた証としての「元号」

わが国が「元号」を用い始めたのは、「大化の改新」のときからだ。

最初の元号は「大化」である。ムシゴロシ、ムジコ、ムシゴめの大化である。

わが国史上、屈指の政治変革である。簡単にいえば、自分たちのやりかたではなく、中国(隋から唐)の国家システムを取り入れた先進国になろう、という急進派による改革であった。

中国発祥の律令国家制度を取り入れることによって、「独立した文明国家」であることを示そうとしたのだ。明治維新のおり、欧米の国家システムをコピーすることによって「わが国もきちんとした近代国家である」と示そうとしたのとまったく同じである。

そのために中国元号ではなく、中国とは別の王の支配する国として、わが国オリジナルの元号「大化」を使用した。

大化のあとは「白雉(はくち)」になり、そのあとしばらく元号は使用されていない。中大兄皇子は忙しかったのだ。天智帝、天武帝、持統帝(および重臣たち)によって「日本」の国作りが急ぎおこなわれた。「日本」という国号もこのころに出来た。つまり「日本」はこの時代に作られたのだ。

持統帝の晩年(譲位して上皇の時代)、文武帝のときに「大宝」の年号が用いられる。律令制がいちおうの完成をみたのだろう。「大宝」以降、元号は絶えることなく1300年を越え、現代に続いている。

天皇を中心とした国家体制が整い、我が国でも「帝」が時間を支配できるようになったのだ。

 

文明国アピールとしての元号

日本の元号は、もとは「中国(唐)」政府に対するアピールである。

われわれ「日本」は「唐」と違う国であり、また文化的にも整った国である、ゆえにわれわれは独自の元号を使う。

そういうアピールだ。

朝鮮半島にあった新羅国では、独自の元号を用いていたが、唐の太宗によって「新羅はわが唐に臣事しているのに、なぜ別の年号を称するのか」と問われ、畏れ入って独自の年号を廃し、唐の元号を使い続けたそうである(文春新書『元号』)。それは大化の改新の3年後(648年)のことだ。中国本国と隣接している国のむずかしさでもある。

中国は国ではなく、広がり続けようとするエリアにすぎないので、自分たちの支配エリアだとおもっているところが、勝手な元号を立てるのをおもしろくない、ということなのだろう。わが国で別元号を立てるのが可能だったのは、海を隔てていたからである。大陸の軍が海を越えて攻めてきたのは、モンゴル人王朝のときくらいだ。

元号は、世界の中心にある「中国王朝」が決める時間基準であった。

それに対抗する意味もあってわが国でも使いだした。

中国の(漢の、隋の、唐の)元号があって、わが国の元号がある。

これが基本である。中国になかったら、わが国には存在しない。