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日本の可能性を奪う「予算脳」の正体~限られた財源のもと節約ばかり…

今はもっと財源を求めてもいいのでは?
福祉や学術といった短期的に「成果」が出にくい事業に携わる機関には、公的な資金で活動をしている人々が少なくありません。なかには、決して金銭的に潤沢とは言えない環境に苦しんでいる人もいますが、彼らは限られた財源のなかでどうやりくりするかにばかり気を取られ、「新たな財源」を求めるという発想を持ちづらいように見えます。
しかし、それは健全なことでしょうか。社会学者の稲葉振一郎氏はこうした節約への固執を「予算脳」と呼んでいます。節約ではなく、むしろ新たな財源を求めることの可能性、そしてそうした要求をしてもよい、と言える条件について考えます。

「予算脳」という言い回しを最近私は時々用いているのだが、これについて書いてくれ、というのが今回のご注文であるので、この言葉づかいの意味を、というよりこの言い回しによって何を言おうとしているのか、を簡単に説明しよう。

日本を含めて昨今多くの国で政策論争の焦点となっているのが財政緊縮をめぐる議論であり、これはひと昔前の「大きな政府・対・小さな政府」をめぐる論争と重なっているようでいて、若干ずれてもいる厄介な代物である。

「予算脳」について考えるためには、まずこの混乱を解きほぐす必要がある。

「大して徴税せずに予算をつける」は成り立つか?

ひと昔前の「大きな政府・対・小さな政府」論争においては、微妙にずれた論点が深く考えられることなく重ね合わせられていた。

つまりここでの政府の「大小」は、政府の権限の大きさ、市民社会、市場経済に対する規制、介入の多寡、強弱という尺度と、政府機構それ自体の規模、予算、人員等の多寡という尺度の、二つの尺度がないまぜになっていたのである。二つの尺度は、「政府規制の強さ、徴税能力の高さ」と「機構・予算の規模」とも言い換えられる。

 

もちろんこの二つの尺度は、完全に独立というわけではない。だが理論的に言えば、この二つの尺度は区別しうる。

それゆえ、第一の尺度の意味(規制の強さ、徴税の強さ)で「大きな政府」、あるいは「強い政府」で、第二の尺度(予算の大きさ)では「小さな政府」を目指すという政治理念(たくさん徴税するけど予算はつけない)は、大きな緊張をはらむものの、ありえないものではない。

逆に、市場への介入は極力抑えた「自由放任」をとりつつ、政府の規模の方は拡大を目指す(大して徴税せずに予算をつける)、というのもあり得ない話ではない。

ただし、民主政治の下では、前者(たくさん徴税するけど予算はつけない)が選択されることは考えにくいだろう。

前者の選択を具体的に考えれば、重い税金が課されるか(徴税大)、あるいは高付加価値の事業を官営企業に独占されるか(規制強)という形で市民社会は政府に搾取される一方で、政府は市民社会に何らサービスを行わず(予算小)、自分たち独自の価値をひたすら追求する、というものであり、これは典型的に独裁政権のパターンである。

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民主政治の下でよりリアリティが高いのは、むろん後者(大して徴税せずに予算をつける)の方だ。

後者の典型的パターンとは、人気取り目的で財源の裏付けのない公共サービスのばらまきを行う福祉国家、社会主義政権である。

手厚いサービスは当然に財源の裏付けを必要とするが、政権への支持を掘り崩しかねない、課税による市民社会の負担増を回避するためにはどうすればよいか? ひとつは、強力な官営事業によって、独自の政府収入を確保するという道であり、いまひとつは、公債を発行して問題を先送りにする、というやり方である。

前者のやり方は産油国など、膨大な天然資源のストックがあるごく一部の国にしか使えない選択肢であり、またそのような国の多くは長期的には資源の枯渇とともに破綻に追い込まれる(ナウルや、近年ではベネズエラがその例である)。

このような「市民社会に大きな負担を強いない大きな政府」は、短期的には実行可能でも、長期的には持続可能ではないため、先の二つの尺度は、実際には一つのものとして連動して見えてしまう。

それゆえ、1970年代の石油ショック以降の「福祉国家の危機」、更には1990年代の社会主義圏の崩壊という経験を経て以降、我々の政策論争においてはこの「市民社会に大きな負担を強いない大きな政府」という理念を掲げる余地はなくなったように見える。