文在寅政権を理解するために知るべき韓国の「歴史的高揚感」の実態

その主観的世界の中で日本は軽いものに
木村 幹 プロフィール

高揚の末、日本は見えなくなる

しかし、このような韓国ナショナリズムの高揚は1つの副産物をもたらした。

なぜなら、朝鮮半島を巡る情勢は自分達が動かしている、という高揚感は、逆に他国、とりわけ米朝交渉の当事者である北朝鮮とアメリカを除く国々の存在を――少なくとも過去とは比べて――軽視させる事となったからである。

言うまでもなく、その典型が日本であった。

今年1月10日に行われた恒例の新年記者会見において、対日問題に対する発言を大統領が避けようとした事、さらには、2月に東京で行われたシンポジウムにおいて大統領補佐官が「北朝鮮問題に日本の役割はない」と語った事に現れているように、日韓関係の悪化にもかかわらず、文在寅政権の関係者はその改善を急いでいるように見えない。その背景には、このような対日関係の軽視が存在する。

日本の朝鮮半島における影響はもはや大きくなく、だからこそ、日韓関係が悪化しても、韓国は朝鮮半島問題のドライバーズシートに座り続ける事ができる。

このような文在寅政権の認識は、政府関係者の対日政策に対する規律を失わせ、結果として、政府の各所からあたかも日本を故意に刺激しているかのように見える言動が続出する事になる。

それが典型的に現れたのが、今年2月の国会議長の「天皇謝罪発言」であった。この発言は、その内容以前に、その提起の方法はとても日韓関係の悪化を踏まえた慎重なものとは言えず、だからこそ国会議長自身の説明は二転三転した。そこには、対日関係の重要性を考慮せず、安易に発言できる雰囲気があり、また発言しても良い、という理解が存在した。

 

だからこそ、去る3月1日の3・1運動100周年は、植民地期に勃発し、そして日本の力の前に早々に挫折する事を余儀なくされた3・1運動から100年を経て、力をつけた「先進国韓国」の成長を祝うものとなるはずだった。

その結果、この時、行われた各種イベントは、日本のメディアが「期待」して待ち受けたような、「反日」色の強いものにはならなかった。

つまり、日本メディアがおどろおどろしく取り上げた、日本大使館前や、その至近にある慰安婦像の前で行われた対日関係を糾弾し「怒りをぶつける」集会が、最大でも数百人程度の人達しか集められなかったのに対し、数万人を遥かに超える光化門前のメイン会場で見られたのは、この100年間の民族の発展を祝い、またその将来の更なる成長を祈念すべく、ステージ上で、歌い、踊り、また伝統芸能を楽しむ「明るい」韓国の人々の姿であった。

否、この表現でさえも実は正確ではない。なぜなら実際には、慰安婦像の前で行われた日本政府を糾弾する集会においてすら、「明るく」「楽しそうに」自らの運動を盛り上げる歌を歌い、ダンスを踊る彼らの姿があったからである。

そこには、小国ゆえの自らの非力を嘆くかつての韓国の人々の姿はなく、自らが奉じる「人権」や「民主主義」の価値を信じ、そこから「遅れた」日本を「上から」教え諭そうとする人々の姿が存在した。