2019.04.01
# コミュニケーション

場の「空気」に支配されないためには「黙り方」こそが重要だ

「お約束」を問い直す方法
荒木 優太 プロフィール

言葉の「可聴域」

似たような光景は、専門的なタームを駆使する学術的な研究会でもよくみられるものだ。いや、東日本大震災以降、「ベクレル」や「シーベルト」といったよく分からない単位や「ガイガーカウンター」なる謎の装置の名が飛び交っていたとき、普段の言葉遣いとは大きく異なる言語体系が実は私たちの卑近な日常の隣りにあったのだと痛感したのではなかったか。

ただし、こういったことは決して一部の専門家にみられる悪癖なのではなく、社会生活を送る誰もが多かれ少なかれ採用している省略話法のはずだ。私たちはすべてのことをいちいち言語化していない。だいたいのことが、言わなくても分かる、分かってしまう。

 

だから、こういった省略話法は、聴き手(読み手)の側の、言葉の可聴域の広さを当てにしているともいえる。まるで言葉には必ずや引っついてくる余韻、エコーがあって、それが聴こえて当り前であるかのように人々は発話する。

実際、私にとって「アライ」には、ポリシャーやワックスといった表立って現れない響きが内蔵されている。が、その響きを正確に受け止められる人は自分が思っている以上に少ない。その達成はある職場に適応した可聴域の広さによるもので、そうでなければ或いはLGBTのイベントでもあるのかと誤解するかもしれない。Allyとは性的マイノリティの当事者に共感する立場の呼称だ。

そして、忘れてはならないのは、すべての場において不足のない可聴域をもつことは有限な人間には許されていないということだろう。私には「アライ」が残す響きが確かに聴こえるが、「ベクレル」がなんなのかまだ分かっていない。

文と文脈を分ける沈黙

可聴域を当てにした省略話法は、確かに便利だ。山と言えば川と返ってくる。コミュニケーションを限りなく自動化できる。けれども、その瞬間、その業界での「お約束」という名目のもとで他の業界からみればいささか奇矯な振る舞いや不法な慣習がスルーされているのかもしれない、そのことに鈍感であるべきではない。

無言=沈黙は一見、業界のもつ閉鎖的な空気に追従しているようにみえる。だから、オラが村の常識であるところの世界の非常識には「オカシイ!」ときちんと声を挙げようという提案には、なるほど確かに一理ある。沈黙ではなく声が大事。

ただし、そのオカシサなるものが納得とともに真に聴き届けられるためには、単なる外からのクレームに終わるのではなく、自動化した発話者が自らその省略性を反省できるように導かねばならない。つまりは、文脈のアシストなしに文を構成して判断してみる力の回復を望む必要がある。

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