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# コミュニケーション

場の「空気」に支配されないためには「黙り方」こそが重要だ

「お約束」を問い直す方法
日本人は場の「空気」に支配されがちだと言われる。ハイコンテクストなお約束にがんじがらめにされた状況を打破するために必要なのは、他人を黙らせる強い意見…かと思いきや、『無責任の新体系 きみはウーティスと言わねばならない』を上梓した批評家の荒木優太氏は、むしろ沈黙こそが重要であるという。いったいどういうことなのか?

コミュニケーションは「沈黙を操るゲーム」

コミュニケーションが苦手だという方にちょっとしたアドバイス。相手が喋っているときは、ただただ頷いておくとよい。その主張内容に賛成か反対か、などと細かいことを考える必要はない。

とりあえず頷く。首を上下に振るというジェスチャーをする。筋肉を動かす。慣れてきたら、これにくわえて喋っている人の目を見たり、「ああ」とか「へぇ」とか「なるほど」といった相槌をおりまぜることができれば、もう一人前。

他人に喋らせることでその場の持ち時間が切れ、たいした苦労もなくコミュニケーションを終えることができるはずだ。八割方はこれでいける。相手によっては「あの人、聞き上手ね」なんて誤解してくれるボーナスもままあるもので。

コミュニケーションは言葉ではなく沈黙を操るゲームだ。どんな沈黙で相手の言葉を引き出したり、押し留めたりするか、そこに事の本質がある。言い換えれば、一見なにもないようにみえる沈黙=無言は決して一様に広がっているのではなく、聴き手のリアクション、小さなサインやその息遣いによって言葉の束に特有の輪郭と方向性を与えるような、個々別々の見えない磁場を発生させている。

ときに言葉よりも言葉の環境の方が雄弁に語るときがある。オーラがある人というのは、発話せずとも物腰によって語ることができる。ちなみに、オーラとは〈アウラ aura〉、つまり〈微風〉や〈息〉のことだからこれを「威風」と訳してもいいかもしれない。風という実体のないものに、なぜだかプレッシャーを与える威力が鼓吹されている。

 

空気と水の共犯関係

だからこそ、評論家の山本七平が指摘していた日本人の悪い癖、「空気」の支配に抗うために、まるで外国人のように自分の意見を大事にして場に流されないようにしましょう、といったよく唱えられる処方箋はいささか心許ない。

復習しよう。山本七平は有名な『「空気」の研究』のなかで、論理の過程やデータの蓄積よりも優先されるその場の「空気」が日本人の行動原理を司っている、と考えた。

戦前の日本軍は無謀と分かっている作戦も、その場の「空気」に抗えず決行してしまった。戦後のマスコミは予め決めつけた結論でもって右にならえでいっせいに報道する。ここには多様な意見=異見を認めないノッペリした「空気」の支配がある。当世風にいえば、「忖度」の政治というやつであり、ある俳優が容疑者になったせいで彼が出演している映像作品が世に出回らなくなる現代日本の風景だ。

空気からの脱却を目指す論者はたいてい、自分の頭で考えて意見を堂々と発言しよう、とアドバイスする。が、その「自分の頭」や「発言」こそが、すでにして磁力を帯びた沈黙=無言に囲まれているのならば、結局、その空気によって知らず知らずのうちに先導されているにすぎないのではないか。

山本は「空気」の対語に「水」を挙げた。「水を差す」の水だ。つまり、現実という名の冷や水を浴びせることで、盛り上がった「空気」を冷却さす力を「水」に読むのだ。ただし、それでもって山本は空気支配から完全に脱却できるとは考えていなかった。というのも、空気にしろ水にしろ、どちらも超越的な基準(~すべき)に依拠しない流動的なもので、水もそれが浸透すればやがては新しい空気支配に交代してしまう。