アフリカのテレビ局「王国テレビ」が教える日本人のテレビ離れの理由

元NHKディレクターの気づき
小野洋文

気持ちを<同期>させるコンテンツが求められている

日本のテレビ番組は、いつの間にか<同期性>に対して鈍感になってしまっているようだ。ただ単純に生放送によって時間を<同期>させるだけでなく、見ている人と同じ時間を生きる気持ちを<同期>させることができているとは言いがたい。

気持ちを<同期>させるとは、むしろラジオというメディアが得意なことである。パーソナリティが今日身の回りであった世間話をしたり、リスナーからの手紙を(今はTwitterだが)読んで、丁寧にコメントをして話を膨らませている番組が多い。

ラジオの歴史をたどってみると、その昔はショーアップされたものや、構成モノも多くあった。しかし、テレビの人気に押された70年代に、長時間生放送の道へと方向転換して今に至る。

特に深夜ラジオなどは若者の心をとらえ(かつて自分もかじりついて聞いていた)、テレビとは違う独特のコンテンツ文化を築いてきた。

やはり大学の授業内で、「ラジオ、テレビ、ネット各メディアの共通性」についてレポートを出すと、非常に多くの学生が「インターネット動画(生放送も含む)は、ラジオの要素を受け継いでいる」ことを指摘する。

YouTuberなり、ネットの生配信者なりが、“リスナー”のコメントを読み上げ“コメント返し”していることや、自分たちの気分に合うような音楽を流していることが理由として挙げられている。自分たちの関心の高い「ゲーム実況」なども含んでいるようだ。

これらの意見には、もっと耳を傾けるべきであるように思う。ネット動画は、時間を<同期>させるだけでなく、見る人と気持ちを<同期>させることができているのである。

映像コンテンツにおける<同期>という考え方は、2000年ゼロ年代に濱野智史がすでにネット動画について論じていて、この稿もそれを踏まえている。

濱野は実時間が同期している「真性同期」に対して、ニコニコ動画の特性を「擬似同期」と評し、実時間は違っても、見ている人の主観的な時間においてコミュニケーションは同期している、とした。

これを本稿の文脈で言い換えると、同じ時間を生きる気持ちを<同期>するということになる。日本のインターネット生放送の文化は、やや商業的に収斂しつつも、バーチャルYouTuberのように現在でも新しい展開を見せている。

さて、それでは、ここでアフリカ「王国テレビ」の話に戻ってみよう。

見る人の生活に寄り添った放送局

先に事例をみたように、「王国テレビ」の番組は、もとより「実時間を同期させよう」という意図は持っていなかった。

そもそも「10時から始まるよ!」という番組が10時から始まらないのだし、決まった時間にも終わらない。現地の人たちが、そもそも時間に合わせて生活していないのだから、テレビ番組が時間通りに始まる意味がどれだけあるだろうか。

しかし「同じ時間を生きている気持ちを同期させよう」という意気込みは、大いにある。むしろ、それのみで成り立っている。テレビのキャスターが果てることもなく世間話をしたり、DJのように音楽やVTRを流すゆったりしたライブ感覚は、見る人の生活するリズムと波長が合っている。

取材VTRにしても、冗長な部分をカットして時間をワープさせて前へ進めていくやり方は、現地の人たちの感覚ではない。「王国テレビ」は、見る人に寄り添った放送局なのであった。

「王国テレビ」の意味不明の取材撮影

「王国テレビ」でもう一つ苦労したことは、意味不明の取材撮影に突然連れて行かれることだった。

「ドキュメンタリー」を作るのだという。バムン王国の人たちは、自民族のプライドが非常に高く、「王国テレビ」も何かにつけて古老から話を聞いたり、暮らしを記録したりしようという気運が高いことは感じていた。

なかでも、“意識高い系”のキャスターが一人いた。彼の企画で、同行して取材撮影して欲しいと言うので、たびたび村を訪ねた。

ところが、なんのドキュメンタリーなのか、さっぱり分からない。聞いても教えてくれない。決まっているのは、日にちと訪ねる村の場所だけだ。

そもそも、王国テレビの番組に「台本」やスケジュールがあったためしがない。そして今回も、何をテーマにするのか、伝統的な事柄なのか、人なのか。どんなシーンを撮ろうとしているのか、まったく説明がない。彼の頭の中にはあるのかもしれない。それとも、全く考えてないのかもしれない。とにかく、よく分からないまま撮影に行くのだ。

ある村に行ったとき、診療所を訪ねた。といっても医者は常駐しておらず、看護士一人がぽつねんといる。閑古鳥の鳴いている感じで、ベッドもあるのかないのか。患者もいないし、暇そうにしている。

看護士に話を聞くと、「週に2,3人がマラリアで診療所に来るんですよ」と言う。マラリアは安静にしていて治る病気ではない。しかし、マラリアの治療薬がここにあるはずのないことはすぐ分かる。いくらマラリア患者が来ても、ここでできることは何もない。この診療所が機能していないことは明らかだった。そして結局、自分は撮影をしなかった。

写真は別の村の医師のいる診療所。医師がいない診療所でカメラを回さず怒られるとは・・・・・・

帰ってあれこれ編集していると、そのキャスター氏が来て「診療所は撮ったのか」と言われる。

「いや、撮ってない。」「なんで撮らないんだ!?」「そんな、何もないのに撮るわけない。」 「映像が足りない。」「だから、事前に打ち合わせしようって言ってるじゃないか!」「うーらら!」「俺の方こそ、うーらら! だよ。」というプチバトル。そんな風に、毎日がバトルだった。

「ドキュメンタリー」には、いくつもの源流があるけれど、日本ではだいたい「現在進行形に起こっていることで、社会的に意義のあるテーマで物事を伝える映像」という認識だと思う。

だから、自分は閑古鳥の鳴いている「診療所」を撮影する必要はない。と思った。撮影する意義がない。

しかし、こちらの人たちの「ドキュメンタリー」は、記録フィルムのような感じで捉えているようだった。テーマがどうとか考えず、手当たり次第に撮る。つまり、キャスター氏の頭の中には、何の考えもなかったのだ。このこと一つをとっても、「ずいぶん遅れているな」と思った。

しかし、だいぶ後になって、もう一つの考え方があることに気が付いた。