アフリカのテレビ局「王国テレビ」が教える日本人のテレビ離れの理由

元NHKディレクターの気づき
小野洋文

リアルな生活を「時間」の枠に収めない

しかし考え方を変えると、「映像を短く編集する」というのは必ずしも自明なことではない。元来“映画の父”たるリュミエール兄弟らが世界中で撮影した映像は、あるがままに撮り、あるがままに再生して楽しむことが想定されていた。

映像に詳しい人は『工場の出口』を思い浮かべるかもしれないが、世界で最初の実写映画は、工場の出口から仕事帰りの人々が出て行く様子を、単純に定点カメラで写しただけの映像である。

編集によって時間を操作しようと考えられるようになったのは、もっと後の話だ。映画研究の分野では、1906年までの映画は「初期映画」というカテゴリーに分けられ、編集された物語を楽しむよりも、現場でのシンプルなパフォーマンスを楽しむ特徴があるとされている。

映像を編集して30分なり、60分なり決められた時間に収めることは、かなり人工的な行為である。「客観的な時間」という、人間が“後から”作り出した概念に、リアルな現実の側の間尺を合わせている、とも言える。

逆にアフリカの考え方は、リアルな現実の方を優先させている。

日本を含めて先進国の人が「時間内に収めること」を自明に考えてしまうのは、チャップリンの映画『モダンタイムス』のように“人間が時間に使われる”近代化の過程を経験したからだろうし、アフリカはそういう経験をしていないために、私たち先進国人のような考え方をしないのではないだろうか。

ここまでの話で、アフリカ流の「番組そのもの」に親しみを覚える人もいるかもしれない。実は今、日本の映像コンテンツの中にも、アフリカ流によく似た仕組みを見つけることができるようになってきたのである。

時間は気分で決まる「王国テレビ」の撮影現場

現前性を発揮する「ネット放送」

それは、インターネット生放送による、世の中との<同期性>ではないかと考えている。まるでタレントのようなYouTuberの動画から、パーソナルで非営利でおこなう「インスタライブ」や「ツイキャス」なども幅広く人気である。

旧来メディアのテレビでも、当然「生放送」という<同期性>で世の中とつながることはできる。しかしネット放送にあって、テレビにないものは、「編集のない現場の現前性」である。

2015年の夏、カメルーンから “ウラシマ”のように帰国した自分が見たのは、安保法案をめぐる、新しいメディア状況だった。

テレビでも連日「安保関連法案」に関する報道がされていたが、特に印象的だったのはインターネット生放送だった。当時は「ニコニコ生放送」の一強の時代で、プラットフォーム上には、法案への反対デモの中継、賛成の集会の中継が同時に並ぶ。

まさに法案審議をおこなう国会中継の隣の画面では「ゲームショー」が中継され、新作“戦争ゲーム”の面白さがプレゼンされている。今、世の中で起こっている断面が、編集のない生の状態のまま画面上に現れていることに、強い衝撃を受けたのだった。

各チャンネルで流される視聴者の膨大なコメント群も、編集のない現前性の一角をなしていた。「テレビでは決して達成されなかったものを今、見ているのだ」という感慨があった。

テレビの場合は、生放送といっても当然そこに編集がある。まず局が「何を取り上げ、何を取り上げないのか」を決めるのだし、カメラを何台も切り替えたりスタジオに戻したりしながら、構成を組み立てていくのである。

テレビ番組はそもそも「眼中にない」

近年では、広島の「平和記念式典」などもテレビ中継のほか、ネット中継で見ることができる。見比べていて決定的に違うのは、マイクが現場の音をどのように拾うかだ。

テレビ局の中継では、指向性のよいマイクを使っているためか、式典でスピーチをしている人の声しか放送には乗らない。

しかしネットでは(業者の場合、個人の場合さまざまなレベルがあるが)、スピーチをする人の声と同時に、公園の外でデモをしている声も拾って、入ってしまう。あまり高いマイクを使っていないのだ。

スピーチの声が聞き取りにくいという反面、多角的な情報に富むともいえる。これをノイズととらえるのか、現場に近いととらえるのかは考え方だが、これも「テレビは編集をする」という分かりやすい事例だろう。

複数の大学で「メディア論」の講義をおこなっていて感じるのは、今の大学生は「全くテレビに興味がない」ということだ。複合的な理由があるにしても、共通するのは「テレビ局は自分に都合のよいものを見せたがっている」という思いが背景にある。

かねてから「テレビ離れ」「メディア不信」は繰り返し語られているが、今や「不信」どころか、最初から眼中にない。若い世代は、映像というのはYouTubeのことだと思っている。