左遷は祟り⁉ 東京・大手町に存在する「日本史ミステリー」の真相

意外と身近な「平将門と3つの謎」

一介の「兵」に過ぎなかった男はなぜ権力に背き、いかに坂東を制し「新皇」として君臨したか。皇室の永続を運命づけた日本史の転換点を描いた『平将門と天慶の乱』の著者が、平将門にまつわる怨霊譚について解説する。

皇居近くの静寂な霊場

皇居の大手門のすぐ前側に位置する東京・大手町──経団連会館や、メガバンク・大手商社など名だたる企業が本店・本社を構える日本最大のオフィス街──に、ぽつんと静かな霊場があるのをご存知だろうか?

10世紀に坂東(今の関東)を鎮定し、「新皇」に即位して、朝廷と争った平将門の首塚である。

都会の喧騒を払うように、清浄な気配を漂わせているが、この地には見た目からちょっと想像できないような怨霊譚がいくつも伝え残されている。将門は反逆者としてだけでなく、祟り神としても屈指の知名度を誇っているのだ。

有名なところでは、将門の首塚を更地にして仮庁舎を建てた大蔵省の職員が多数病死した事件が起こった際、ときの大蔵大臣・三土忠造が神田明神の社司を招き、厳かな鎮魂祭を執り行わせている。日本の公的機関が将門を初めて怨霊と認めた瞬間だ。その後、官庁街一帯が落雷によって炎上した事件が発生した時も、やはりときの大蔵大臣・河田烈が鎮魂祭を催した。

さらにいえば戦後、その地を駐車場にしようとした工事業者が急死した事件を聞き覚えがある方もおられよう(こうした一連の事件は、国税庁の公式ウェブサイトにも記載されている)。

また、1987年5月19日付の朝日新聞夕刊によれば、かつては〈周辺の会社で「首塚にしりや背中を向けて座るとたたりで病気になったり、左遷されたりする」といった話も伝えられ、窓に向かうように机を置いていた会社もあったほど〉だという。

近年の創作物でも『帝都物語』(荒俣宏)の「加藤保憲」というトラウマ、『真・女神転生』(アトラス)の「マサカドさま」事件、『護法少女ソワカちゃん』(kihirohito)の「マサカドインパクト」がよく知られており、その怨霊は死後1000年以上が過ぎてなお、まだ元気であるらしい。

それにしても将門はどうしてこんなに〝祟る〟のだろうか。

将門を覆う雲影

もう長い間、将門の怨霊譚は増産され続けている。

伝説というのはみなそうだが、謎が多ければ多いほど育ちやすい。将門はその知名度に反して、実態が何もわかっていない。

何年生まれなのか、なぜ強かったのか。どうやって坂東を鎮定したのか、何を望んで新皇を名乗ったのか。いずれも不明である。

国立国会図書館蔵

昨今、歴史の「陰謀論」が取り沙汰されるように、人間には歴史の謎を埋め合わせようと、作り話を当てはめてでも理解に努める性質がある。

しかし作り話は作り話に過ぎないから、史実と矛盾するものとなってしまう。すると、その矛盾を埋めるため、また新たな作り話を編み出し、その延命を助けてしまう。

将門の首塚にまつわる祟り話も、こうした構造から巨大化されていった。よく考えてみてほしい。そもそも茨城県で戦死した将門の首が、なぜ都内に埋められているのだろうか。

この辺りは江戸時代になるまで入り江であった。水場に首が埋葬されるわけがない。この首塚は埋め立てが進んだ江戸時代初期に作られたはずで、しかも将門と何の関係もない霊場だったと思われる。

だが、そこに後付けで無数の作り話が加わり、史蹟・将門塚としての物語が整備されていった。京都からこの地まで首が飛んできたとか、将門より古くからある霊場だったとか、勅許を受けて朝廷に公認されたなどという類の都市伝説である。

このたび上梓した『平将門と天慶の乱』(講談社現代新書/4月10日発売)でも指摘しているように、将門を祟り神たらしめているのは、かれ自身の意思ではなく、歴史の暗雲に視界を曇らされた人々の幻想である。このままだと将門は永遠に祟り神であり続けてしまう。われわれは将門にいつまでも祟っていてほしいのだろうか。

そうであってはならない。将門は祟りから解放してやるべきだろう。そのためには、歴史の暗雲を打ち払う必要がある。将門にまつわる謎を解き明かせば、怨霊も消え失せるのではないか。

ここではその手始めとして、将門を祟り神たらしめている歴史の暗雲を3点ほど見渡していきたい。