フロイトとその家族(photo by gettyimages)
# 哲学・思想

社会学者フロイトに、エディプス・コンプレックスが生まれた日のこと

父親に対する殺意をもって
講談社現代新書の通巻2500番として発売され、発売後まもなく重版が決まった大澤真幸著『社会学史』。その中から今回は、フロイトを論じた一部を特別公開します。エディプス・コンプレックスは人間の中で規範や道徳が生まれてくるメカニズムと、深く結びついている――偉大な知の営みが頭に染み込んでいく、本物の教養体験をどうぞ!

フロイトは社会学者

ふつうは、フロイト(Sigmund Freud,1856─1939)を社会学者の中には入れません。心理学の歴史には出てくるかもしれません(心理学者の中には、フロイトなんか心理学者じゃない、という人もけっこういますが)。

ジグムント・フロイト(photo by gettyimages)

心理学や精神医学の歴史ならまだしも、通常、社会学の歴史にフロイトは登場しないでしょう。しかし、入れないといけないと思います。

ちなみに、奥井智之さんの『社会学の歴史』(東京大学出版会)には、きちんとフロイトに1章があてられています。

あるいは、のちに出てくるタルコット・パーソンズは、すぐれた社会学史の本でもある『社会的行為の構造』という大著の中に(実際には入っていない)フロイトを入れるべきだったという趣旨のことを、後で書いています。

これらは、正しい見識だったと思います。

フロイト自身は、自分を「社会学者」だと見なしたことはありません。

 

しかし、フロイトの説は、社会学に大きな影響を与えている。もしフロイトを社会学史の中に入れなければ、わからなくなってしまう学説はたくさんあります。

すでにこの『社会学史』でも、フロイトが必要になるはずだ、ということを示唆する伏線をはってきました。マルクスの理論の説明の中で、私たちは「無意識」に出会っているからです。

マルクスははっきりそういう言葉を使ったわけではないですが、事実上、私たちはフロイト的な無意識を見ているのです。

一般的等価形態(貨幣)への私たちの信仰にも比せられる執着は、無意識のものである、と論じてきました。私たちは、「そんなもの」はつまらないものだ、と思っている。貨幣など、ただの便利な道具に過ぎない、と嘲笑しているのです。しかし、私たちは、それを無意識のうちに崇めています。こんなふうに論じておきました。

無意識は「隠れた思考」ではない

その無意識なるものの無意識性を真に自覚し、それ自体を学問的な対象として取り出して理論にしたのがフロイトです。マルクスの議論とのつながりという点でも、19世紀から20世紀の境目はフロイトから入るのがふさわしいと思います。

ただ、フロイトは、マルクス以上に、あるいは少なくともマルクス並みに、解釈が難しかったり、いろいろな研究があったりします。フロイトに深入りしてしまうと面倒なことになる。フロイトの全体像をここで詳細に論ずることはできません。

そこで、主として、社会学の歴史を理解するのに必要な範囲内で、「ここは押さえておいたほうがいい」という部分に限って紹介しておきます。

最初に注意をしておきます。「無意識」というものについて、です。無意識というものを、何か、意識の表面に現れない「隠れた思考」のようなものと考えている人がいます。

しかし、それはまちがいです。先の貨幣や商品の価値への執着のことを思えばよい。それらは、あからさまに表面に現れているでしょう。しかし、それが何であるかを私たちは自覚していません。フロイトのいう「無意識」とは、そういう種類のものです。

フロイトの過酷な半生

ジグムント・フロイトは1856年の生まれです。そのころに生まれると、中年の最も脂の乗り切った時期に、ちょうど20世紀になる。そういう世代です。

フロイトはご存じのようにユダヤ人です。この人の人生の、特に序盤は、よくわからないところがあります。モラビアといういまのチェコの地域(当時はオーストリアの一部)で生まれて、父親は毛織物の商人ですが、非常に貧しかった。

父親は何度か結婚していて、フロイトは父親の何番目の奥さんの子なのかよくわからない。普通は、2番目の奥さんの子とされていますが、よく調べてみると、フロイトの母親はどうも3人目の奥さんらしい。

ともかく、フロイトが4歳のときに、一家はウィーンに移っています。フロイトが自伝的に過去を振り返った文章によれば、彼はウィーンに来たときのこと、たとえば駅や列車のことをよく覚えていることになっていますが、本当に覚えていたのかわかりません。もっと成長してから作られた記憶なのかもしれません。

フロイトは、一時期パリに留学していたこともありますが、基本はずっとウィーンに住んでいました。しかし、ナチスが強くなってきたために、1938年に、ユダヤ人であるフロイトは、ロンドンに亡命します。そして翌年ロンドンで没しました。

もともとフロイト家は貧乏で、子どもがみんな大学に行けるような家庭ではなかったのですが、ジグムント(実は生まれたときにジギスムントだった)だけは幼い頃から才能があって、一家の期待を担って大学まで行きました。大学では医学の勉強をします。

彼は、成人してから、どうやって稼ぎ、生活していたか。かたちの上では大学のポストらしいものをもった時期もあります。ただ、日本語では「私講師」とか、「員外教授」とかと訳されているポストであって、今風に言えば非常勤講師よりも悪い条件です。

つまり、一応、大学の講師ではあるが、大学からは給料は払われません。講義をしたら、聴きにきた人から授業料をとって、その分をもらえた。

もっとも、もともと中世の大学は、給料を払っていたわけではありません。聴講するために集まって来た人たちからお金をとっていたので、本来のやり方とも言えます。

ただ、近代の大学では、ふつうは雇われて、給料をもらう。しかし、フロイトは私講師で、大学からお金をもらって生活することができなかった。彼は生涯、臨床医として仕事をし、それによって収入を得ていました。

そして、フロイトは、自分自身の臨床の経験をもとにして、「精神分析」という新しい臨床の技術と学問を構築したのです。その間、シャルコー、ブロイアー、フリース、ユングなどの医者・学者と交流し、そしてときに決裂しました。