自分こそ「過労死候補生」だった

過労死について、ほとんどの方は「私は健康だから大丈夫」「自分には関係ない」と思っていることでしょう。私も数年前まではそうでした。でも今思えば自分こそが、まさに「過労死候補生」だったのです――。

そう語るのは、朝日新聞社記者の牧内昇平さん。牧内さんは先日、長年の取材をふまえてまとめた『過労死―その仕事、命より大切ですか』を上梓した。そこの冒頭には、自分自身も過労死候補生だった、誰にでも過労死はありうるのだということが書かれている。

一体それはどういうことなのか。改めて牧内さんに自身のこと、そして自身を投影できる過労死の悲しい事例を語ってもらった。

「仕事を任されている」高揚感

私は2006年に新聞社に入社。福島県の支局を皮切りに、最初の5年間を地方記者として働き、その後、東京本社の経済部に配属されました。電機、ITなど民間企業の取材を9か月ほど経験した頃、財務省の記者クラブへ異動。最前線の記者として、早朝から深夜まであちこちを飛び回る生活を送っていました。

当時の私のタイムスケジュールは、次のようなものでした。まず朝は5時台に起き、出勤前の国会議員や官僚をつかまえる「朝まわり」という仕事をこなします。昼間は原稿書きなどをして、夜は同じように「夜まわり」を2~3軒。その後、同僚と打ち合わせをし、仕事から開放されるのは早くて夜の1時、遅い時は2時3時という状況でした。

睡眠時間は短い時で3時間ほど。たまにライバル紙にスクープを抜かれたりすると、上司から夜中の3時くらいに電話がかかってきて、うちはどんなふうに取材するか、指示を受けなくてはなりませんでした。そうなると、もう寝る時間はほとんどありません。

ハードな毎日でしたが、当時は若かったこともあり、こなせてしまえていました。むしろ、仕事を振ってもらえる喜び、重要な仕事を任されているという高揚感の方が大きかった。もちろん同期の中で認められたいという欲もありました。

東京本社に戻って来るタイミングで結婚もしていましたが、仕事が多忙だったために食事はずっと外食。妻とはろくに会話する時間もなく、せいぜい僕が帰宅して風呂に入っている時に、彼女が風呂場までやって来て話をするくらいでした。出張で海外に行ってしまうと、時差もあるため、さらにコミュニケーションを取るのが難しい状況になっていたように思います。

「働かされ方」への衝撃

最初に体調を崩したのは、私ではなく妻のほうでした。

2011年、我が家に待望の第一子が誕生しました。けれどパートナー不在で初めての育児と向き合うなか、妻が倒れてしまいます。おそらく彼女は妊娠中から孤独感を抱えていたのでしょうが、私が仕事、仕事で察してやれなかったんですね。ある時、彼女の方から「もう厳しいんだけど……」と言われて、初めて危機に気づくというありさまでした。

その後、私は財務省の担当から外れ、少し楽な部署に異動になりました。家族と一緒に過ごす時間は増えたものの、第一線から外れる不安で心の中はモヤモヤ。「記者としてこのままでいいのだろうか」と、自問自答する日々が続きました。

そんななか出会ったのが、過労死についての取材だったのです。

時期は2012年。2008年に起きたワタミの過労自死事件をきっかけに、20代の「過労自死」が問題になり始めていた頃です。私も若い人を中心に取材を進めていきました。そこで感じたのは、「彼らはこんな働き方をさせられているのか!」という驚きです。職場でのいじめが原因で19歳という若さで亡くなった人もいれば、極度の長時間労働の末、自ら命を絶った24歳の青年もいました。