殺人か医療行為か…「透析中止事件」から私たちが考えるべきこと

透析中止と安楽死のあいだ
美馬 達哉 プロフィール

さて、どうも誤解されていることが多いように思うのだが、日本では、患者本人の意志による治療拒否の結果としての死の選択は、法的に禁止されているわけではない。

むしろ現状としては、超高齢社会のもとでの医療費削減政策の一環として、政府厚労省は患者本人による死の選択(治療中止)を推進したいのではないかと疑いたくなるような施策を次々と出している。

そうした流れ自体は問題だと私は思うが、患者の自己決定を支援する提言やガイドラインの一つ一つはよく練られていて、一部には優れた内容も含んでいるものがある。

その一つである厚労省の「人生の最終段階における医療・ケアの決定プロセスに関するガイドライン」(改訂2018年)では、死を目前に控えた段階で、本人と家族を中心としながら、主治医だけではなく多職種で話し合いをすることの重要性が謳われている。

実際にこうした丁寧な意志決定プロセスが行われた上で死を迎えたケースが、かつてNHK「クローズアップ現代+」で放映されたことがある(2017年6月9日「『延命中止』という新たな選択——生と死のはざまで」)。

それは帝京大学病院でのできごとで、患者も主治医も実名で登場し、人工呼吸器による呼吸補助が中止された後に患者が死亡するところまでが映し出されていた。

だが、十分なコミュニケーションがあったためか、関係者も納得しており、テレビ放映後も特に法的に問題視されなかった。

 

治療を見合わせることの倫理

今回の透析中止のような状況は医療倫理では、「治療中止や打ち切り」の問題としてより広い意味で議論されてきた。

そのとき、議論される重要なポイントは、患者本人の意志(自己決定権)という問題と医学的に適切で妥当な治療法の有無という問題の二つだ。

前者の患者の自己決定権の尊重については様々なチェックポイントがある。

まず、死への自己決定が精神疾患による自殺願望(希死念慮)ではないかどうかを判断するという問題だ。

精神科医がうつ病と診断した場合には、治療中止は本来の意志でない可能性もあり、うつ病の治療を行った上で、あらためて「死の選択」を行う必要が出てくる。

報道されている透析中止のケースでは、(夫の手記によれば)「抑うつ性神経症と診断され、治療を続けていました」とあって、しかも自殺未遂歴もあるようなので、治療中止を選んだのがうつ病の症状による一時的な気の迷いだったかもしれないとの疑念は残る。

第二は、人間の意志というものは時間とともに変化することを踏まえて、クーリングオフ制度のように、死の直前まで意志決定を翻すことができるように、医療者は細心の注意を払う必要がある、という点だ。

この透析中止のケースでは、夫の手記を信じるならば、死への過程の途中で、患者が自己決定を撤回したり変更したりする自由が認められていたかどうかもかなり怪しい。

第三の場合として、患者本人のその時点での意志がわからない場合(意識障害や認知症など)にどうするかについては、議論百出だ。

健康な状態の時の事前の意志がよいのか、病気の進行途中で考えが変わったかもしれないのだから生命維持優先にしたほうがよいのか、家族が決めるのか、法的な後見人に任せるのか、さらには病院の倫理委員会の判断によるのか、立法によって手続きを決めておくべきか、などなど。

ただし、この点は、透析中止のケースには関係しないので深入りしないでおく。