日本を愛したドナルド・キーンは、アメリカで日本の心をどう教えたか

彼は、真の「先生」だった
キャロル・グラック プロフィール

日本語の完璧な「翻訳」

さらにドナルド・キーンは、翻訳の達人とは何たるや、をあえて言葉にせずとも私たちに示してくれた。彼の英訳は、筋が通っているだけでなく――私たちの翻訳は間違いだらけだったが――日本語の原文からたった1つの言葉も省くことがなかった。

翻訳者は、理解できない言葉に出会うと単にそれを省いて次に行くものも少なくない。しかしキーンによる英訳においては、たとえば近松門左衛門の「道行」の複雑な洒落や言葉遊びでさえ、原語に対応する英語の言葉をそのページに見つけられる。繰り返すが、彼は日本語の原文の世界に完璧なまでに入り込み、一語一句を理解し、これを経て初めて翻訳という作業に入ったのだ。言うまでもなく私たち学生の中でこの技を習得できた人はほとんどいなかったが、彼がどうやって翻訳するのかを見ることは息をのむような経験だった。

ドナルド・キーンは、自分の学生たちにはすべて同じように接した。その学生が何者かは彼にとっては関係がなく、日本に関心があれば誰でも喜んで歓迎した。キーン教授の教え子のうち優秀な成績を収めた学生の多くは女性だったが、彼女たちは、当時は学問の世界全体に女性の数が少なかったなかで成功をつかんでいった。

彼の晩年に至るまで親しい関係にあった人たちの中には、学部生としてキーン教授に出会い、その後はまったく別の分野でキャリアを築きながらも、日本文学について教えてくれたその人のことを忘れられなかった、という人が複数いた。それは、ドナルド・キーンが多くの本を書いた学者だったというだけでなく、多くの手紙を書いていたことも関係しているだろう。手紙をたくさん書くという行為は現代ではほとんどなくなったが、彼が生きた時代にも少なくなりつつあった。

 

「SENSEI」より「ティーチャー」

ドナルド・キーンと彼の教え子たちの長年にわたる関係に思いをはせながら、私も70年代から昨年末に至るまで彼からもらった手紙の数々を読み返してみた。分厚いファイルに彼から届いた手紙やポストカードが詰まっていて、そこにはニュースや多くのユーモアとときどき悲しい出来事、コロンビア大学についての質問や、「ワープロ」と格闘した話、私や私の家族のことを心配したことや、そして常に私の返事が遅いことへの不満が書かれていた。(こういうとき、安部公房の気持ちが少しわかるようになった。私もドナルドに、お願いだからそんなに早く返事を書いてこないでとたびたび言ったものだ。彼の書く力に私が追い付けるわけはないのだから、と)。

先生と生徒の関係が一生続くというのは日本ではよくあることかもしれないが、アメリカでは珍しいほうだ。少なくとも、ドナルド・キーンと今や世界に散らばる教え子たち、その多くは「弟子」とは言えない元学生たちとの関係は、特異だと言える。彼らは、その心と人生にドナルド・キーンが残した影響があまりに深かったがゆえに、彼と手紙のやりとりがなかった人たちでさえも現在までずっと彼を大事に思っている。だからこそ、この数週間というものキーン先生との教室での思い出を語り合う元教え子たちのメールがどんどん増え続けているのだろう。

ドナルドは、「Sensei(先生)」という言葉は嫌いで、そう呼ばれたくはない、と言っていた。だが彼は、「Teacher(ティーチャー)」という言葉は常に好んで使っていた。彼は、コロンビア大学の自分の先生たち、特にマーク・ヴァン・ドーレンと角田柳作を崇拝していた。キーン教授は1942年にコロンビア大学を卒業し、51年に博士号を取得、55年に日本文学を教え始めた。92年に大学の教職から退いた後も、毎年春学期にはコロンビアで教えるということを、2011年に日本に永住するまで20年以上も続けた。

教えるということは、彼の魂の中心にあり続けた。いや、彼ならきっと「心」の中心と言ったに違いない。そして、彼の教え子たちはみな、それをよく理解していた。私たちにとってドナルド・キーンとは、その存在のすべてに加えて、真の意味での「先生」だった。教え子たちはともに彼の死を悼み、彼を忘れられないでいる。

翻訳・小暮聡子
 

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