日本を愛したドナルド・キーンは、アメリカで日本の心をどう教えたか

彼は、真の「先生」だった
キャロル・グラック プロフィール

ハムレットより「近松」

そして彼は、日本文学を教える際にもそれを広い世界から切り離して語ることは決してなかった。日本文学を語る際には、(オペラについては言うまでもなく)シェイクスピアやデフォー、プルーストやプーシキンにもたびたび言及し、文学の世界は国境を越えるのだと説いた。キーン先生に言わせれば、ハムレットは他人が何を考えるかには無関心だった。それに比べて近松門左衛門の作品に出てくる不運な主人公たちは、彼らが生きた時代の社会的な道徳観のなかで行動する。それゆえ、デンマークの王子ハムレットよりも近松作品の主人公たちのほうがより共感を呼ぶのだ――と、キーン先生は結論付けた。

もちろん、教室の中にそんな風に考えたことがある人はひとりとしていなかった。私たちは、ドナルド・キーンが日本文学を世界の文学として紹介し、さまざまな世界を横断していく様に歓喜し、夢中になった。その世界への扉は、世界文学としての日本文学を大事に思い心で感じながら読もうとする人であれば、誰に対しても開かれていた。

ドナルド・キーンはしばしば、多くの日本人よりも日本文化に精通していると言われたものだが、今の世代を含めても彼ほど日本について知らない、まだ学んだことのない人々に対して、教壇から自分の知識を授ける学者という立場で話すような「大先生」ではなかった。

 

安部公房がキーン教授にした「お願い」

かつて、40年ほど前の正月だったと思うが、ドナルド・キーンの親しい友人だった安部公房は、私とあなたで日本についての知識量が平等になるよう、頼むから日本について知っていることをこの1年間で毎日1つずつ忘れてくれないか、と言ったことがあった。

しかし、キーン教授は自分の教え子たちに対しては常に平等な立場で接していたし、そんな教え子たちから見れば、彼の百科事典のような知識は、教室をさまざまな物語や歴史、登場人物やジャンル、美しさ(これもキーン教授のお気に入りの言葉だ)が溢れる文化の宝庫に様変わりさせるものだった。私たちは、キーン教授の授業はまるで映画を観に行くようだとよく言っていた。彼から聞き学ぶという体験は、私たちにとっては大きな喜びだったのだ。

ドナルド・キーンは、彼の日本文学の授業を履修した数百人もの学生たちの間で、日本に対する関心が普及していくのに火をつけた。彼は日本語の上級コースを履修している学生グループを対象に、能楽作品や近松、芭蕉など、一学期を通して1人の作家もしくは1つのジャンルについて学生と一緒に読み込むという連続セミナーを開催した。これらのセミナーも、違った意味での傑作だった。

私の専攻は日本近現代史であり日本文学ではなかったが、彼の講義を受けた他の多くの学生と同じように、私もただもっとドナルド・キーンから学びたいがために、芭蕉と近松のセミナーに参加した。それは、最も厳しく刺激的な学業経験の1つだった。ある作品を最後まで少しずつ読み進め、家でテキストを翻訳し、教室で翻訳したものを朗読したり説明し合ったりした。

もしこの作業がつまらなそうに聞こえたとしたら、実際にはまったく逆で、それは私たちの下手な翻訳のおかげではなく、キーン先生が私たちの翻訳を使ってやってみせたことが刺激的だったのだ。彼が、私たちの翻訳を使ってその作品の内容と文脈、著者と作品が書かれた時代、そこに出てくる言葉遣いと比喩について語るのは、最上級の学術的「即興」だった。この即興のミニレクチャーと見識を聞けるのであれば、私たちにとっては非常に難解なテキストを数時間かけて翻訳する宿題もやりがいがあるというものだった。

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