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島田紳助、上岡龍太郎…平成を制した2人がテレビ界から去った背景

さんまと鶴瓶になれなかった2人

3月15日、私が書いた『教養としての平成お笑い史』(ディスカヴァー・トゥエンティワン)が出版された。14の事件を題材にして平成のお笑いを振り返っている。

平成のお笑い界の状況を一言で言うと「群雄割拠」である。平成に入ってから、テレビに出る芸人の数が一気に増えた。その主な理由は、吉本興業が東京に本格進出したことと、頻発するお笑いブームによって芸人を目指す人が急増して、お笑い市場がかつてなく活性化したことである。

「お笑い戦国時代」のトップに立った者たち

平成の始まりの年にあたる1989年(平成元年)は、大阪で活動していたダウンタウンが東京に進出した年である。その後、ダウンタウンはウッチャンナンチャンと並ぶお笑い界のエース的な存在となった。

1995年には吉本興業のお笑い養成所であるNSC(吉本総合芸能学院)東京校が開校。これ以降、ダウンタウン、ナインティナインに続いて多くの吉本芸人が東京のテレビ界を席巻していった。『タモリのSUPERボキャブラ天国』『爆笑オンエアバトル』『エンタの神様』など若手芸人が数多く出る番組が人気を博し、それぞれの時期にお笑いブームが起こった。

この「お笑い戦国時代」に激しい競争を勝ち抜き、トップに立つのは容易なことではない。トップに立った者たちは、その地位を簡単に手放しはしない。平成が始まる頃にすでにスターだったビートたけしや明石家さんまは、平成が終わろうとしている今もテレビ界の頂点に君臨している。

そんな中で、平成時代にたった2人だけ例外的な存在がいた。それが上岡龍太郎と島田紳助である。彼らはレギュラー番組を多数抱えている人気絶頂期に、自ら引退を表明してテレビの世界を退いていった。戦国時代の「覇者」であるはずの彼らは、なぜその王座をあっさりと明け渡してしまったのだろうか。

 

笑福亭鶴瓶になれなかった上岡龍太郎

上岡龍太郎は「横山パンチ」という芸名を名乗り、横山ノックと横山フックと共に漫画トリオを結成して、芸人としての活動を始めた。「パンパカパーン、パンパンパン、パンパカパーン、今週のハイライト」という決まり文句で始まるテンポのいい時事ネタ漫才は当時としては斬新だった。

1968年にノックが参議院議員選挙に出馬することを発表して、漫画トリオは活動を休止することになった。このときから芸名を「上岡龍太郎」に改めた。難しい言葉で聞き手を煙に巻き、立て板に水でしゃべり続ける独特の話芸で大阪のテレビで活躍した。

1987年に大阪ローカルで始まった『鶴瓶上岡のパペポTV』(読売テレビ)が1988年10月から東京でも放送されるようになると、東京の業界人の間でこの番組が話題になった。『パペポTV』は笑福亭鶴瓶と上岡が何のテーマも決めずに60分間しゃべるだけの番組だ。

自分の体験したことや感じたことをストレートに話す鶴瓶に対して、上岡は理屈っぽくクールに対応する。その対象的なキャラクターのぶつかり合いによって笑いが生まれていた。この番組を見て、東京のテレビ制作者は衝撃を受けた。彼らの間で、上岡を「ポストたけし・さんま」として東京のテレビでも起用しようという機運が高まっていった。

東京嫌いを公言していた上岡自身は、東京進出に乗り気ではなかった。ところが、いざ番組が始まると、評判は上々で、どんどん仕事は増えていった。東京では、上岡のように断定口調で偉そうにものを言う大人向けの司会者が不在だったのだ。