関東大震災の混乱の中、日本初の「震災ルポ」制作に奔走した人々

大衆は神である(43)
魚住 昭 プロフィール

「野間君がやるのなら譲る」

数十万部の発行には大量の紙を必要とする。だが、主な紙問屋の貯蔵紙は焼失し、とくに口絵写真80ページに使う写真版用アート紙(光沢のある白色高級紙)がなかった。震災発生時に音羽邸に居合わせた紙問屋の主人・岡本正五郎の証言。

〈地震が終わって間もないころ、赤石(喜平)さんが夜遅く私の家を叩いて、今度こういうものを作るから紙を出してほしいと頼まれた。ちょうどその時、実業之日本社との契約でベルギーから輸入したアート紙があった。同社はまだ使ってないが、金はすでにもらってある。それをなんとか融通してもらえないかということになったんです。

そこで、私は増田義一さん(ますだ・ぎいち、実業之日本社創業者)に頼みに行った。すると、増田さんはきっぱりと「野間君がやるのなら譲る」と、提供してくださった。そのかわり、今後うちの社で要るときは責任をもってほしいといわれ、それは必ず間に合わせますと請合って、融通がついたわけです〉

この当時、講談社は実業之日本社にとって最大のライバルだったから、増田は用紙提供を断ってもよかったはずだ。しかし、増田は応じた。その人の好さが結果的に講談社を躍進させ、やがて実業之日本社の衰運を招くことになるのだが。

 

あの機械もこの機械もすべて講談社のものを刷っている

『大正大震災大火災』の印刷を引き受けたのは博文館印刷所(現・共同印刷)だった。同印刷所では震災のため新工場が倒壊し、41名の工員が圧死したが、旧工場のほうは機械の損傷も少なかったので、これを修理してフル回転させることになった。赤石喜平の証言。

〈雑誌協会の人々などが博文館の(旧)工場の様子を見にくると、すべての機械が盛んに動いている。が、よく見れば、あの機械もこの機械もすべて講談社のものを刷っている。今月は雑誌発行は全部休むと申し合わせてあったにもかかわらず、講談社はけしからん。『大正大震災大火災』は雑誌じゃあないと言うだろうけど、あれは雑誌まがいのものだ。あれはずるい、という非難が多くなった。

協会の某々二君の如きは、非常な怒り方で、一杯機嫌で講談社の玄関前に仁王立ちとなり、赤石を出せ、あの野郎けしからんとかなんとか言って、だいぶ憤慨して帰ったそうだ。そこで、僕は協会の幹事のところに一々了解を得べく、説明に廻ったものです〉

註1: 『読売新聞百二十年史』より。