関東大震災の混乱の中、日本初の「震災ルポ」制作に奔走した人々

大衆は神である(43)
魚住 昭 プロフィール

折から講談社は、翌年の新年号(大正12年12月発売予定)で国民雑誌『キング』を創刊する準備を進めていた。清治はその創刊を1年延ばし、広瀬照太郎ら『キング』研究部員たちを震災ルポの制作にあたらせることにした。

タイトルは『大正大震災大火災』。日本画の大家・横山大観が表紙絵を描き、口絵写真80ページ、本文300ページ。発行予定50万部。社運をかけた空前の大プロジェクトである。

 

超スピードの編集作業

9月14日に原稿依頼を済ませ、19日までに原稿ができ、24日に校了という超スピードの編集作業が進んだ。それが可能になったのは、関東戒厳司令官の福田雅太郎(ふくだ・まさたろう、陸軍大将)が災害写真や災害地図などの便宜を図り、東京日日新聞の著名記者・新妻莞(にいづま・かん)が記事を提供したからだった。

広瀬照太郎は新妻に「この本は新聞情報がなければできないから、ひとつまとめ役をお願いしたい」と懇請した。秘蔵資料に残された新妻の証言。

〈私の一家はそのころ芝公園のすぐそばの小さな二階家に住んでました。何かことがあっても電車なしに社にいける。家族は芝公園に逃げ込めるというわけです。電灯がついておらないものですから、新聞は昼間だけ作って、日が暮れると社員が帰ってしまって、足場が悪いですから、足場のいい私の家に五、六人の記者を泊めておいたのです。そこに社から米が来ましたし、めし食って寝起きして、社に帰って昼間だけ仕事をした。広瀬君のご注文にはもってこいです。

広瀬君に口説き落とされて始めたわけでして、地方の種がいながらにして集まるのです。警視庁種が入りますし、その材料を五、六人で担当して原稿のできるままに少年諸君が団子坂から何回となく取りに来る。できたら渡してあげる。昼間新聞社に行っておりましょう。夕方帰ってローソクをつけて、その下で――自然編集長のようなことでどのぐらい集まったのか……半分ぐらい私のところから行ったでしょう。

警視庁種から地方種から、写真も写真部をもっていましたからあったと思います。何日間くらいでしたか……。その中のひとりが鈴木茂三郎(すずき・もさぶろう、戦後、日本社会党の委員長)ですよ。ここの(「経済界の大打撃と将来」という)経済種は鈴木茂三郎が書いておりましたよ。

私が書いたのは「死灰の都をめぐる」ですが、九月二日に(約四万人の焼死者をだした)本所の被服廠(ひふくしょう)跡に一番最初に入って新聞記事にしたのを雑誌用に書き直したものです〉