関東大震災の混乱の中、日本初の「震災ルポ」制作に奔走した人々

大衆は神である(43)

ノンフィクション作家・魚住昭氏が極秘資料をひもとき、講談社創業者・野間清治の波乱の人生と、日本の出版業界の黎明を描き出す大河連載「大衆は神である」。

「雑誌の時代」を迎えた大正のメディア業界と講談社を、関東大震災の激震が襲う。混乱の中、陣頭指揮をとる清治が社員に命じたのは、いまだ経験したことのない50万部の「震災ルポ」制作だった……。

第五章 少年たちの王国──出版界の革命(1)

塗り変わった東京のメディア地図

震災で東京の出版界は壊滅的な打撃を受けた。博文館関連では日本橋の本店、麴町の大橋新太郎邸のほか、その邸内に創業者佐平が遺した大橋図書館、神田の東京堂などが焼けた。

新社屋を建築中だった実業之日本社は京橋の仮社屋を焼失し、「落成記念のために、書籍の大売出をする計画で、好評なものをたくさん増刷して他に倉庫を借りて貯蔵したものは丸焼になる。一冊の書籍もなければ雑誌もない。ペン一本紙一枚なく、何ものをものこさない。(略)あまりに災害が大きかったために、容易に再起復興は出来まいと早合点して、無断で地方へ逃げ帰った社員さえあった」(『実業之日本社百年史』)。

 

ついでに述べておくと、新聞界が受けた被害も甚大だった。東京17紙のうち社屋焼失を免れたのは、東京日日(大阪毎日系)、報知、都の3社だけで、これらは比較的早く平常通りの新聞発行をすることができた。東京朝日も被災したとはいえ、大阪朝日の応援でいち早く復旧に取りかかった。しかし東京系新聞社の復興は大きく遅れ、経営は窮迫した。

これを境に東京新聞界の勢力地図は一変した。震災以前、東京朝日、東京日日、報知、時事、国民が5大紙と呼ばれていたが、時事、国民の両紙がその地位から脱落、やまと、万朝報、中央などの伝統ある新聞も衰運の一途をたどり、やがて姿を消した。

なかでも1ヵ月前に完成したばかりの社屋を焼失した読売の打撃は大きかった。読売は経営に行き詰まって翌年2月、身売りを余儀なくされる。

結局、震災後は、資本力のある朝日、毎日の関西系2大紙がめきめき勢力を伸ばし、寡占体制を築いていくことになる(註1)。

こうして新聞社、出版社、取次各社が軒並み被災するなか、講談社は返品倉庫がつぶれただけで建物本体は無事だった。けが人もなく、「野間はどこまでも幸運児だ」と人々は噂した。

『大正大震災大火災』

9月10日、東京雑誌協会の臨時幹事会が清治の音羽邸で開かれた。そこで、10月号の雑誌(通常は9月発売)は10月1日から発行し、「10月1日までは、こんどの大震災に関する記事をのせた雑誌は、どんな形式でも出さない」との申し合わせが行われた。

次も『私の半生』の清治の述懐である。

〈一方私の戦友たる講談社の社員は、異口同音に、この一ヵ月の休刊期間をこのまま無駄に過ごすべきではないと、いろいろの提案をもたらした。それら多くの計画について、会議は何回となく戸外において、揺れ動く地面の上で開かれるのであった。ついに大震火災の状況を主としたる単行本を出し、これによって新聞以上精細なる報道を天下のために提供すべきであると決定した。かかる場合に我々出版業者が、だれ一人もかくの如き計画をするものがないというようなことでは、出版業者として恥辱であり、かつ外国に対しても面目ない、日本の名折れである、と考えた〉