「切りやすい人々」とは誰か? 「移民の時代」と「人間の条件」

外国人労働者と非正規労働者が増えた理由
望月 優大 プロフィール

移民の時代と人間の条件

同時に、一つひとつの制度の違いを超えて、この国の「移民政策」に通底する論理をつかみ取ることも重要である。拙著『ふたつの日本』ではこちらのテーマにも取り組んだ。

「外国人労働者」の問題は、「外国人」の問題であると同時に「労働者」の問題でもある。そして、平成の時代に起きた「日本人」労働者たちを取り巻く環境の激変と外国人労働者たちの大幅な増加とは双子のような関係にある。

一言で言えば、この30年間は国家や企業にとって「切りやすい人々」が大きく増えた時代だった。人間の「交換可能性」が著しく高まった時代であったとも言える。

非正規雇用者の割合の推移

国家も企業も、一人の人間の人生に対してますます「責任」を負いたがらなくなってきている。自らが必要なときに必要なだけ関わり、未来の約束を回避するようになってきている。

「未来の約束」とは、長期雇用の約束であり、福祉国家の約束でもある。

雇用の非正規化、そして老いた人々や病んだ人々に対する社会保障のカット、こうした生々しい変化と、若くて健康な数年間だけ日本で働いてくれる外国人労働者の受け入れ拡大とはコインの裏表だ。

〔PHOTO〕iStock

政府が繰り返す「移民政策ではない」という呪文は、単なるナショナリズムの表現であるだけでなく、むしろそれ以上に「あなたの面倒ごとには関わりたくない」というこの国からの宣言のようなものとして捉えるべきである。そして、重要なことに、その宣言の宛先は外国人だけではないのだ。

「交換可能な労働力」へと切り詰められた人間の生がどうなるか。外国人労働者、移民たちを取り巻く問題を見つめることは、「人間の条件」について考えることを私たちに強いる。

日本人の女性社員が妊娠を理由に意図せぬ退職や配置換えを迫られているとき、外国人の技能実習生は妊娠を理由に強制帰国を迫られている――そこに見出すべきは、差異よりも共通性ではないだろうか。

果たして人は永続的な交換可能性と不安定性の中で生きていくことができるのか。「有用」でなくなった途端に切られ得る存在として、私たち人間は豊かに暮らしていくことができるのか。

移民の時代に問われるもの、それは人が人であるための社会的な条件である。そういう時代を、私たちは生き始めているのだ。

*読書人の雑誌『本』2019年4月号より転載