技術時代に救いはありうるか? ハイデガー哲学から考える

1953年講演「技術とは何だろうか」
森 一郎 プロフィール

技術時代のゆくえ

ところが、第3の区切りに入って「運命の巧みな遣わし」が語られるあたりから、だんだん怪しくなる。ヘルダーリンの詩句「だが、危機のあるところ、救いとなるものもまた育つ」が引かれ、救いの可能性が云々され始めると、どうもいけない。

「創作」とりわけ「詩作」という打開の方向にまで進むと、もうダメである。圧倒的な現代技術を前にして、芸術や詩を持ち出したところで何だ、そんなの気休めにすぎない、と呟きたくなる。

しかし今回、自分で訳してみて考えが変わった。この講演は「技術時代の芸術」と題するシンポジウムの枠で行なわれた。芸術に一縷の望みを託すオチが来るのは、当然なのだ。

それについて行けなければ、「技術時代に救いはありうるか?」という開かれた問いを自分で考えればよい。現代技術のゆくえという難問に一義的な解答を求めること自体、マークシート方式に凝り固まった精神の証左であろう。

それにしても、どこか思い当たるフシはないだろうか。最高の危機にこそ転回の可能性が閃くというシナリオに見覚えはないか。

今から8年前の3・11当時、ひょっとしてこれは「危機と転回」の筋書きか、という思いにとらわれる瞬間があった。総かり立て体制の化けの皮が剝がれていく、と。

だがその思いはたちまち消えた。何も変わっていないどころか、いつの間にか、現代技術の本質を覆い隠す議論ばかりが横行している(たとえばAIをめぐる狂騒)。

とはいえ、一過的なトピックはやり過ごして、広大な視野で現代技術を眺めてみると、別の「転回」劇がすでに演じられていたことに気づく。

原子爆弾を2発落とされ、地上に地獄図が現出した国で、戦争放棄と戦力不保持を宣言する新しい憲法が制定され、そこに播かれた精神が70年以上にわたって育てられてきたという事実、これである。

何を今さら、と言うなかれ。危機の極まった瞬間に救いの芽が萌すというドラマが、今度どう書き継がれるか、世紀の見物である。ならば、ハイデガーの思わせぶりな文章にも功徳があるというものだ。

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