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技術時代に救いはありうるか? ハイデガー哲学から考える

1953年講演「技術とは何だろうか」

住むことを学ばなければならない

20世紀を代表する哲学者マルティン・ハイデガーは、道具や技術、創作について思索したことで知られる。第二次世界大戦を経て深められたその思索を平明な講演の形で表明したテクストが、1954年刊の『講演と論文』に収められている。

今回その中から3つを選んで新しく訳し、『技術とは何だろうか──三つの講演』と題して講談社学術文庫として出す機会に恵まれたことを喜ばしく思う。

最初に収録した作品は、ずばり「物」と題された1950年の講演。飛行機やテレビといった交通・通信手段が地球の収縮をもたらす一方、米ソが原水爆開発競争を激化させた世情が刻印されている。

瓶という身近な道具を題材にとり、つましい「物」のうちにも天・地・神・人から成る「世界」大の出来事が思いがけず宿っていると説く。ハイデガー独自の即物的記述のスタイルが遺憾なく発揮されている。

2番目の収録作品は、翌51年の講演「建てること、住むこと、考えること」

敗戦後の住宅難の時代に建築家協会主催のシンポジウムで、建てることは「住む」という営みの一環だ、住むことをわれわれは学ばなければならない、と語った有名な哲学的建築論。

橋や古い家屋を例にとって、物と世界を「労わること」に光を当てる叙述は、現代日本の建て替え至上主義に反省を迫るものがある。

最後に収めた1953年の講演「技術とは何だろうか」は、ハイデガー哲学の最重要テクストの1つ。

従来は「技術への問い」という邦訳名で通用してきた。同じ頃、アイゼンハワー米国大統領が「原子力の平和利用」演説を行なっている。

ハイデガーは、「総かり立て体制」と命名される現代技術の本質には、相手をけしかけ、唆して、隠された本性を吐き出させる「挑発」というアプローチが固有だとしている。

精選されたこれら珠玉の3篇を、どうぞご賞味あれ──とはいうものの、屈折に富む哲学者の著述を読むのは、たとえ小品でも容易ではない。

私自身、「技術とは何だろうか」の後半が昔から苦手だった。何度挑戦しても後半に入ると頭に入らなくなったことを、ここに告白する。

この講演は、締めくくりに置かれた最後の2段落を除けば、3つの区切りから成る。第1、第2の区切りまではいい。

技術とは何だろうかと問うて古代ギリシアの技術概念に遡り、技術もまた真理をあばく仕方だとしたうえで現代技術に立ち戻り、ヒトとモノの一切を資源として無差別に徴用する「総かり立て体制」には、「挑発」という暴露法がひそんでいると喝破する論の運びは、スリリングである。