Photo by iStock

日本の先祖に!?なぜ諸葛亮(孔明)は「明治の偉人」になったのか

局アナが語る「三国志の日本史」③

皆さん、こんにちは。ニッポン放送のアナウンサー、箱崎みどりです。

普段はラジオ局、ニッポン放送(AM1242、FM93)で「草野満代 夕暮れWONDER4」(月~木曜16時から)などの番組を担当している私ですが、実は、「三国志」が大好きなんです。

今年は、特別展「三国志」が、東京国立博物館で7月9日から、九州国立博物館で10月1日から行われます。「三国志」が改めて注目を浴び、盛り上がることでしょう!

さて、新元号・令和の典拠として注目を集めている『万葉集』にも、関羽の腕を切開手術した医者・華佗や、曹操の禁酒令を破った徐邈など、三国時代の人物の名が出ています。このように、「三国志」と日本の関わりには長い歴史がありますが、そんな「三国志の日本史」の中から、連載第3回では、明治時代を取り上げます。

なぜ、諸葛亮(孔明)は「日本の先祖」と述べられるまでに、広く受け入れられたのか? その理由と謎に迫っていきましょう。

近代日本は、孔明の独擅場

前回の記事、第2回「張飛が艶っぽい遊女に⁉江戸の人々が遊び倒した「三国志」のパロディ」では、江戸時代に、『三国志演義』の翻訳『通俗三国志』のパロディが多数生まれたことなどについてお話ししました。

いただいたご感想には、「今も昔もやっていることは変わらない」「江戸時代の人も、現代と似たような趣味嗜好を持っていたのか」など、少々の呆れ(?)も含みつつ、共感する声が多かったように思います。

続く明治時代は、明治維新を経て、富国強兵、列強に肩を並べるべく邁進した時代ですが、「三国志」の日本史も、江戸時代とはガラッと様相が異なります。

スポットライトが当たるのは、諸葛亮(孔明)。明治時代から戦前にかけての「三国志」は、孔明の独擅場と言っても過言ではありません。

第2回では、花街で遊ぶ孔明を描いたパロディ小説もあるとお話ししましたが、明治時代の孔明は、180度イメージを転換。教科書にも取り上げられたのです。

丞相病篤かりき

江戸時代、娯楽の一つとして消費された「三国志」にまつわる文物ですが、明治時代は、孔明を特別な英雄にしていきます。

大きな役割を担ったのが、「丞相病篤かりき」のフレーズが哀しい、土井晩翠の『星落秋風五丈原』。

『荒城の月』などで知られる詩人、土井晩翠の傑作『星落秋風五丈原』は、明治31(1898)年に、『帝国文学』で発表され、翌年詩集『天地有情』に収められました。

七五調の文語定型詩の形式で、初出時は、6章43連350行にも及ぶ長大な作品です。孔明の人生を語る叙事詩であり、情感たっぷりに歌い上げる抒情詩でもあります。

発表前に批評した、詩人で評論家の大町桂月は、「星落秋風五丈原」を高く評価。すでにこの時から、「丞相病篤かりき」のリフレインが高める悲壮感、同情の涙が溢れることなども指摘しています。

「星落秋風五丈原」は、土井晩翠が作詞した校歌や寮歌同様、節をつけて愛唱されました。私が旧制高校OBの方々に伺ったお話だと、晩翠の故郷、仙台にあった旧制第二高等学校、陸軍士官学校、陸軍経理学校、陸軍幼年学校などで、実際に歌われていたそうです。

上級生が歌っているものを、誰に教えてもらうでもなく、下級生も自然に覚えたといいます。採譜され残された楽譜を見ても、音程やリズムはまちまちなので、それぞれの場所で、自然発生的に歌われていたことが推察されます。

以前、大学のゼミで、私がこの詩を取り上げた時、「三国志」を知らない学生は、「出来事はよく分からなかった」「偉い人が何事かを成し遂げて死んだことは読み取れる」と言っていたので、この詩は、あくまで「三国志」とセットで味わうためにあるのかもしれません。

当時広く歌われたということは、「三国志」の浸透ぶりを示していると見ることもできるでしょう。

国に尽くす忠義の人

では、なぜ、そんなにも「三国志」や孔明の事績が知られていたのでしょうか? 

そのヒントとなるのが、国定教科書です。

明治時代は、富国強兵に突き進んだ時代。国を支える「臣民」を生み出すために、近代的な学校制度も始まり、全国展開されます。

明治5(1872)年、日本最初の教育法令である、学制が頒布されました。小学校の教科書については、明治20年頃から教科書検定が実施され、明治36年に国定教科書制度が確立、学校で扱われるテキストも全国で統一されたのです。

こうして成立した国定教科書に、孔明の逸話が載っています。孔明が登場するのは、国定教科書の第二期と第三期。