「自由」と「生命倫理」の衝突が起きている
https://www.asahi.com/articles/ASM1P63VLM1PUHBI02P.html)
SFでときどきテーマになっていたような、遺伝子編集がなされた子どもがいよいよ現実のものとなるようだ。これについては真偽不明の情報とされていたが、中国当局によって事実であることが認められた。
彼らは、公に確認された「デザイナーベイビー」第一号ということになるのだろうか。当然のことながら、安全性や倫理の観点から大きな論争を巻き起こしている。
「生まれる命がどのようにあるべきか(あるいは、あるべきでないのか)」というパターナリズムをどの程度まで及ぼしてよいのか、というのはいまだ定まった解答をみないテーマのひとつだろう。とくに現代社会でその文脈で問われているもののひとつが、いわゆる「出生前診断」だ。
出生前診断には、もちろん当事者のさまざまな事情がひとつひとつの背景にあることはいうまでもない。しかしながら、どのような理屈があるにしても、社会の中で「劣っている」とみなされる存在を排除しようとする、優生思想と隣り合わせの行為であることは否定できない。
出生前診断は、「命の選別」を行う優生思想を助長しかねないという観点から批判されている。しかし、そのような批判もまた「健常児を産んで、幸せになりたい(幸福追求権)」という思いと衝突するものだろう。事実、医師や当事者の中には憲法第13条に定められた幸福追求権をもとに、出生前診断を正当なものとする見解もあるようだ(https://www.ritsumei-arsvi.org/publication/center_report/publication-center22/publication-331/)。
憲法が定めた「基本的人権」の重要部分をなす「幸福追求」の権利と、他の人権や倫理の領域との間でコンフリクトが生じている。かりに出生前診断などという技術が登場しなければ、このような問題は生じなかったはずで、これはある意味では現代社会におけるバグのひとつといえるのかもしれない。
今後は出生前診断だけでなく、両親や胎児の遺伝子を編集することで、遺伝性疾患のリスクを最小限にでき、健康な子どもを安心して産める社会がやってくるかもしれない。
ただしそのような技術が確立した暁には、遺伝子編集は病気を発見するためだけに活用されるわけではないだろう――容姿や運動能力、知性や性格特性などにも手を加えたくなるはずだ。