人間爆弾・桜花を発案した男の「あまりに過酷なその後の人生」

偽名を使い無戸籍のまま生き続けた
神立 尚紀 プロフィール

「桜花」生みの親となってしまった男の49年後の悔恨

大田が、終戦3日後の8月18日、零戦を操縦、空の彼方に消え、「公務死」とされたのは、先に述べた通りである。その模様を目撃した佐伯さんによると、大田の乗った零戦は、ボロのミシンで縫うようにヨロヨロと離陸していき、やがて見えなくなった。

これが、ほんとうに自決を覚悟しての行動だったのか、狂言だったのか、そこのところも謎である。結果として大田は、海上に着水して漁船に救助された。北海道に渡ってしばらくそこで過ごしたとされるが、植木さんは、戦後間もない頃、神ノ池基地のあった近くで、階級章をはずした軍服姿の大田と、偶然バスで乗り合わせたという。青森や名古屋で会ったという人もいるし、かつての戦友に寸借を重ねていたという話もある。

 

そして大田は、昭和25(1950)年頃、「横山道雄」の偽名で大阪に出て、日本橋の電気街裏の借家に居を構え、ここで義子さんと出会った。今回、大屋隆司さん、美千代さん夫妻の話から判明したのは、この時期以降の大田の姿である。

隆司さんが小学校に上がる前(昭和30年代前半)には、大田は繊維業界に伝手をつくり、「繊維新聞」と称する事業を興し、印刷した生地の見本帳を持って売り歩いていたという。そしてこの頃、日本橋で世話になった老人から土地の提供を受け、自分で大工仕事をして建てたのが、現在、大屋さん一家が暮らす家である。

2階、3階と建て増して、地下室をつくったときには、隆司さんも土を掘って運び出す手伝いをしたという。地下室は一時、知人に貸して機械工場にしていたが、騒音の苦情で閉鎖した。大田は以後、長年この家に住み続けたが、近所に、仲の良い人はいても友人と呼べる人はいなかった。

「父は社交的というか、世渡り上手なところがあって、仕事を辞めてもすぐに次の仕事が見つかるといった感じでした。工事現場のガードマンをしたり、覚えきれないぐらい仕事を転々として、実年齢で75歳ぐらいまでは働いていましたね。軍事雑誌の『丸』をときどき買って、自分の名前が載っていると、『これが俺や』と、母には言っていたようです。ふだんの生活に、戦争中のことや戸籍がないことへの負い目は見えませんでした」(隆司さん)

昭和56年頃の、横山道雄こと大田正一

平成になると、10歳も若くサバを読んでいた大田の身体は徐々に衰え、足腰が不自由になって、家の裏に椅子を出し、黙って空を見上げる日が増えた。

そして平成6(1994)年――。

「ゴールデンウィークの連休明けに、父が突然、いなくなったんです。いつものように犬の散歩に出かけ、公園の木に犬をつないだまま姿を消して。あとから知ったんですが、父は伊丹空港から沖縄に飛び、そのあと、和歌山に渡って高野山に行ったようです」

大田は、沖縄でタクシーに乗って各地を回ったのち、高野山を訪ねた。沖縄は、「桜花」も出撃した激戦地であり、高野山には、多くの特攻戦死者を出した海軍飛行専修予備学生14期生の慰霊碑がある。大田は高室院という宿坊を訪ね、ここで若い僧侶・宮島基行さんに、自らの正体が「大田正一」であることを明かした上で、戸籍がないこと、「桜花」を発案し、それを悔やんでいることなどを語った。戦後49年、「横山道雄」が初めて「大田正一」に戻った瞬間だった。

翌日、高野山を辞した大田は、タクシーで南紀白浜の景勝地・三段壁に向かう。そしてここで、柵を乗り越えて断崖から飛び降りようとしたところを、パトロール中の警察官に保護された。足腰が弱り、すでに柵に登ることができなかったのだ。

白浜警察署からの連絡を受け、隆司さんが迎えに駆けつけたとき、大田は堰を切ったように泣いた。隆司さんにとって、父親のこんな姿を見るのは初めてのことだった。

この自殺未遂が、本心からの行為だったどうかはわからない。しかし、自らの命が長くないことを予感し、「大田正一」として、「桜花」戦没者への贖罪のうちに生涯を終えようとしたのだとすれば、その心情は斟酌できる気がする。

平成6年5月、沖縄から高野山に詣でた大田正一は南紀白浜で自殺を図るが、地元警察に保護された。これは翌月、そのときの礼に、家族とともに高野山・高室院を再訪した大田(右)と、高室院の僧侶・宮島基行さん。大田はこれから半年後に世を去った

南紀白浜での自殺未遂の後、大田は目に見えて衰弱していった。医師に診せたところ、前立腺癌が進行していて、余命3ヵ月だという。

「淀川キリスト教病院に3ヵ月入院し、その後、京都の日本バプテスト病院に転院しました。最後は脳が冒され、苦痛で暴れるのでベッドに縛られて。うわごとで号令をかけたり、『隊長!』と呼びかけたり、『すまんかった!』と誰かに謝ったり。そのとき、義父にとって戦争は終わってなかったんだな、ずっと悔いは残ってたんだな、と思いました……」

と、美千代さんは振り返る。

平成6(1994)年12月7日、大田正一、死去。享年82。戸籍の回復はならなかったが、役所は、埋葬許可に必要な死亡届を「大田正一」として受理した。

戦争が終わったとき、神雷部隊の隊員は、「3年後の3月21日、靖国神社で会おう」と約して解散。昭和23(1948)年3月21日、まだ空襲の爪痕も生々しい東京・九段に、約束通り約40名が集った。昭和26(1951)年からは毎年、春分の日に慰霊祭を行うこととし、これは、隊員の高齢化で、戦友会が公式には解散した現在も、存命の隊員や遺族によって続けられている。その結束の固さは、ほかの部隊にはちょっと例を見ないほどである。

大田は、神雷部隊の慰霊祭に参列したことは一度もなく、生存者のなかにはいまなお彼を快く思わない人もいる。昭和3(1928)年生まれ、最若年の「桜花」搭乗員で、満16歳で終戦を迎えた浅野昭典さんは、

「大田さんが生きていたのなら、戦後、せめてみんなの前で一言詫びてくれれば」

と言う。いっぽうで、軍令部、航空本部、航空技術廠で大田のアイディアを採用、それを「桜花」として完成させ、部隊を編成し、作戦を実行した上層部の関係者のほとんどは、戦後、このことについて自らの責任に言及することのないまま、天寿を全うした。

大田が埋葬された墓には、大田正一の名も、横山道雄の名もない。しかし、「大田正一」という男が「桜花」を発案したことは、数多くの謎に包まれながらも、確実に歴史に刻まれている。