人間爆弾・桜花を発案した男の「あまりに過酷なその後の人生」

偽名を使い無戸籍のまま生き続けた
神立 尚紀 プロフィール

異例の経緯で採用された「桜花」の開発

大田正一が南方戦線にいた昭和18(1943)年春からの約一年間は、ガダルカナル島失陥にはじまり、米軍を主力とする連合軍が、まるでブルドーザーで地面をならすような勢いで、南太平洋のソロモン諸島、中部太平洋のマーシャル諸島、そして北太平洋のアリューシャン列島など、それまで日本軍が築いてきた拠点に侵攻し、航空部隊の損失も目に見えて増えていた時期である。

すでに、昭和18年6月末頃から、海軍部内では、飛行機に爆弾を積んだまま敵艦に突入するという捨て身の戦法が議論に上るようになっていた。昭和19年2月下旬には、のちに「回天」と名づけられる「人間魚雷」の試作が、極秘裏に始められている。

 

昭和19(1944)年4月4日、軍令部第二部長(軍備担当)・黒島亀人少将は、第一部長(作戦担当)・中澤佑少将に、特攻兵器を開発することを提案し、その案を元に軍令部は、9種類の特殊兵器の緊急実験を行なうよう、海軍省に要望した。

前線から帰還し、神奈川県の厚木基地に新設された輸送機部隊である第一〇八一海軍航空隊に転勤した大田が、大型爆弾に翼と操縦席を取りつけ、操縦可能にした「人間爆弾」の着想を、同隊司令・菅原英雄中佐に伝えたのは、昭和19年5月のこととされる。

これには、「戦局の悪化を目の当たりにしたから(ラバウル方面での搭乗員戦死率は、投入された人数の概ね75パーセントにのぼっていた)」、「陸海軍で模索されていた誘導弾の最大のネックである誘導装置を人間に置き換えた」など、いくつか断片的な説があるが、いずれにせよ、体当り攻撃自体が、海軍の既定路線とされつつある時期のことである。

大田は、支那事変(日中戦争)の頃、ロケットで敵機の針路前方に投網を打ち上げて撃墜しようとの思いつきを披露したエピソードの残る、いわば奇抜なアイディアマンであり、これは、美千代さんが語る戦後の姿とも重なる。本人のこの発明家的資質が、自ら目にした南方戦線の現実と重なり、「人間爆弾」の着想につながったのだと思われる。

大田は菅原中佐の推薦で、そのアイディアを航空技術廠(空技廠)長・和田操中将に提案した。和田中将はこれを、海軍の航空行政を司る航空本部に伝え、航空本部の伊東祐満中佐と、軍令部の源田實中佐とが協議して研究を進めることとなった。

海軍の技術、行政、軍令の中枢が、たかが一少尉の進言で動くということは通常ではありえないが、そのありえないことが起きた。大田はさらに、三菱名古屋発動機製作所を訪ね、陸軍が開発中の「イ号誘導弾」と称する、母機から投下する有翼誘導弾のあらましを聞き出した。

大田が次に訪ねたのは、東京帝国大学工学部に付属する航空機研究所である。東大では、小川太一郎教授を通じて実現可能性の実験や概略の設計を依頼、木村秀政所員が機体形状をまとめ、谷一郎教授が風洞実験のデータを計測した。大田がなぜ、ここまでのことを行動に移せたのも謎の一つである。

海軍航空きっての実力者で、軍令部で特攻を推進する立場にあった源田實中佐の口添えがあったからだとも言われるが、戦後、航空幕僚長を経て参議院議員を務めた源田は、平成元(1989)年に亡くなるまで、そのことについていっさい語っていない。

いっぽう、6月19日には、第三四一航空隊司令・岡村基春大佐が、第二航空艦隊司令長官・福留繁中将に、「体当り機300機をもって特殊部隊を編成し、その指揮官として私を任命されたい」と意見具申している。

大田のアイディアは、「特攻」に舵を切ろうとしていた軍令部や、一部の第一線部隊指揮官にとってまさに渡りに舟、希望に沿うものであったのだ。