人間爆弾・桜花を発案した男の「あまりに過酷なその後の人生」

偽名を使い無戸籍のまま生き続けた
神立 尚紀 プロフィール

「桜花」を発案したのは叩き上げの特務士官

ひとたび母機から切り離されれば絶対に生還が不可能な、この非情極まりない兵器を発案したとされるのは、大田正一少尉である。

大正元(1912)年8月23日、山口県熊毛郡生まれ、昭和3年6月1日、海軍四等水兵として呉海兵団に入団した、叩き上げの特務士官(兵から下士官、准士官を経て累進した士官)である。普通科電信術練習生、偵察練習生を経て、飛行機の偵察員(2人乗り以上の飛行機で、航法、偵察などを担当する)となり、支那事変(日中戦争)では九六式陸上攻撃機に乗って、多くの実戦に参加した。

 

その後、准士官(兵曹長)進級とともに予備役となり、即日召集されて教官配置につき、太平洋戦争では司令部所属の輸送機の機長として、ラバウル(現・パプアニューギニア)を拠点に、南太平洋の前線で空を飛んでいた。

大田正一。昭和19年11月20日頃、神雷部隊集合写真より

その大田が、なぜ「桜花」を発案するに至ったのかは謎に包まれている。少尉といえば士官のなかでは最下級で、実務の上では大尉か中尉の分隊長を補佐する「分隊士」、実戦だとせいぜい小隊長クラスである。しかも海軍では、同じ少尉の階級でも、海軍兵学校出身の士官と、大田のような、叩き上げのノンキャリアでは扱いに大きな差があった。

さらに軍人社会は「現役」最優先で、「予備役」は格下に見られる。一度予備役に編入、つまりクビを宣告され、再び応召した、大田のような経歴の少尉のアイディアが上層部を動かし、兵器の開発につながるということは、普通ならば考えられないことだ。

さらに、大田は終戦直後の昭和20年8月18日、零戦を操縦して茨城県の神ノ池基地を離陸し、そのまま行方不明となっている。大田は、終戦時中尉だったが、のちに「公務死」として死亡が認定され、大尉に進級、戸籍も抹消されたという。

――だが、大田は、実は海上に不時着水、漁船に救助されて生きていた。北海道で引揚者に紛れ、新たに戸籍をつくったという噂も、まことしやかにささやかれたが、その消息については詳らかでなかった。私が神雷部隊の戦友会に出たり、関係者をインタビューするようになった20数年前も、大田については皆、あえて話題にするのを避けているような雰囲気があった。

戦後は、名と年齢を偽り、無戸籍で暮らす

私のもとへ、大田正一の遺族を名乗る人から、講談社を通じて連絡があったのは5年前、平成26(2014)年の春のことである。大阪市在住の大屋美千代さんというその女性は、大田正一の息子の妻で、結婚後は大田と同居し、晩年、介護もしていたという。

はじめは、半信半疑だった。これまでにも、戦死したはずの著名な軍人が実は生きていた、という話は時おり浮上することがあって、調べてみると、その全てが勘違いや作り話の類だった。今回も、あるいは大田正一を騙る別人の親族なのではないか、という疑念がふと頭をよぎったのだ。

だが、大阪・梅田の新阪急ホテル喫茶室で美千代さんと会い、話を聞き、持参いただいた写真を見たとき、そんな疑心は吹き飛んだ。

戦後、就職のために撮られた証明写真。その太い眉、するどい眼光は、戦中に撮られた写真で知る大田正一と、まぎれもなく同一人物である。美千代さんの話も、義父が大田正一その人であることに、全く矛盾のないものだった。

戦後、就職のために撮影した大田正一の証明写真。横山道雄と名乗っていた。昭和30年代の撮影と思われる
大田正一の飛行服姿。神雷部隊集合写真より

大屋さんは、これまでずっと、義父が桜花を発案したことは家族の胸にしまってきたのだという。だが、『桜花』のことをテレビで見て、母機の一式陸攻もろとも撃墜される姿に衝撃を受け、これは黙っているわけにはいかないと思い、私に接触を試みてくれたのだ。

「義父(ちち)は、『横山道雄』と名乗っていました。戦後、昭和26(1951)年に大阪で、大正14(1925)年生まれの義母と出会い、主人と二人の弟が生まれたんですが、義父は大正11(1922)年12月11日生まれと称していて、私たちもずっとそれを信じていました。実は大正元年生まれで、10歳もサバを読んでいたんです。若く見えたので、誰も疑わなかったですね。

大屋というのは義母方の姓で、戸籍がないから、義母とは正式に籍は入れられないままでした。私がお嫁に来て、いちばん仲良しだったのが義父でした。義父も私も血液型がAB型で、そのせいか気が合ったんです。いつも晩酌のお供をしていました」

美千代さんの夫・大屋隆司さんは、昭和27(1952)年生まれで、いまは電気工事関係の仕事をしているという。

「義父は、身長が175センチぐらいあって体格がよく、本人は働き者なんですが、勤め先で何か証明書を求められたりするたびに辞めて、また次の仕事を探す、という具合で、生涯で20いくつも仕事を転々としていました。しかし、うちはあまり干渉しない家族で、なぜ戸籍がないのか、深く考えて問いただしたこともなかったですね。

義父の性格は、山っ気があるというか、水力発電とか、太陽光湯沸かし器とか、いろんなアイディアが次々と出てくる人でした。器用な人で、いま住んでいる家も、大工の修業もしてないのに、自分で要塞みたいな家を建てたんです」

美千代さんによると、義父・横山道雄こと大田正一は、戦後何度か戸籍の回復を試みたものの、結局、死ぬまで無戸籍のままだった。就職のため本人が書いた履歴書を見ると、本籍地の欄は山口県ではなく、北海道と偽って記されている。仕事が不安定なので、義母の義子さんが資生堂の工場に勤めて家計を支えた。

晩年、癌を患い、無戸籍ゆえに保険にも入っておらず、医療費が高額となったことから、家族が、改めて戸籍作成と医療保護の申請をした。その結果、「大田正一」の名で医療保護は受けられたものの、戸籍の回復は間に合わなかった。手続きの過程で、義父には戦中に築いたもう一つの家族がいたことも、初めて知ることになった。

次に私は、大阪市東淀川区の大屋さん方を訪ねた。大屋さんの家は、裏に児童公園を隔てた淀川沿いにあって、晩年の大田正一は、いつも裏口に椅子を出して空を眺めていたという。美千代さんの夫・大屋隆司さんにとって、大田正一は――あくまで横山道雄としてではあるが――子煩悩なよき父親だった。

「子供の頃はよく、朝早くに天王寺動物園の周囲を散歩しながら、柵越しに動物を見たのを憶えています。私は、15歳までは(父の偽名である)横山姓でしたが、それ以後は母方の姓を名乗るようになりました。母から、父の本当の名前と『桜花』の発案者であることを教えられたのは、中学生の頃だったと思います。

それは、ショックでしたよ。まさか偽名だとは思わなかったし、あのやさしい父が、非人道的な特攻兵器を発案したなんて、信じられなかった。高校生の頃、本屋さんに行っていろんな本を読んでみましたが、『人間爆弾』を考え出す人間性を疑うというか……。父は、私が小さいときから、酒を飲んでは戦争の話を、もう辟易するほどに語ってましたが、『桜花』については何も言わなかったですね」