新興出版社を襲った未曾有の大震災と、飛び交う流言蜚語

大衆は神である(42)

ノンフィクション作家・魚住昭氏が極秘資料をひもとき、講談社創業者・野間清治の波乱の人生と、日本の出版業界の黎明を描き出す大河連載「大衆は神である」。

数多の傑物が集う新興出版社がリードして幕が開けた「雑誌の時代」。大衆文化の創成が始まろうとするまさにそのとき、未曾有の災害が東京を襲い、東京では朝鮮人が「暴動を起こした」「放火して回っている」「井戸に毒を投げ込んだ」などといった流言が広がった。

第五章 少年たちの王国──関東大震災(2)

流言蜚語

このとき、東京の社会主義者や朝鮮人の取り締まり・動向監視の任にあたっていたのは、警視庁の官房主事(総監官房のトップ。特高警察を所管)だった正力松太郎(しょうりき・まつたろう)である。

震災発生時、正力は警視庁3階の自室にいた。揺れがやみ、窓の外を見ると、警視庁の後ろ隣の活版所から火が出ていた。午後1時すぎには庁舎に火が移ったので、午後2時ごろ、正力らは日比谷公園に隣接した府立第一中学校舎に移り、そこを警視庁仮庁舎とした。

警視庁編『大正大震火災誌抄』(姜徳相・琴秉洞編 『現代史資料6 関東大震災と朝鮮人』みすず書房刊より)によると、午後3時ごろ、東京で「社会主義者と朝鮮人の放火多し」という流言が流れはじめる。社会主義者や朝鮮人の取り締まりが正力の職責だから、当然、この種の流言は所轄署から本庁に報告され、彼の耳に入っている。

つづいて午後4時ごろ、王子署管内で「鮮人放火」の流言が広まった。午後6時ごろには芝・愛宕(あたご)署の管内で「鮮人襲来」のデマが伝わった。愛宕署は本庁の命令を受け、制服・私服の警戒隊員らに芝園橋、芝公園その他の要所を警戒させたが、結局、何事もなかった。

翌2日未明、淀橋署戸塚分署の管内で「鮮人放火」のデマが流れ、同日午後、神社の境内にいた朝鮮人87名が検束されたが、「固(もと)より不逞の徒にあらざるを以て」釈放された。

 

2日午後3時ごろ、駒込署が、「爆弾と毒薬を所持せり」として自警団員が連れてきた朝鮮人を調べたところ、爆弾と思われたのはパイナップルの缶詰で、毒薬と見えたのは砂糖だった。月島署に「鮮人所有の爆発物なり」と持ち込まれたのも、単なる唐辛子の粉末だとわかった。

このように個々の情報の真偽を確認すると、すべて虚報だと分かるのだが、2日午後2時以降になると、朝鮮人暴動の流言は急速に膨れあがり、その内容も具体性を帯びてくる。

「鮮人約二百名、神奈川で殺傷、略奪、放火。東京方面に襲来する」
「鮮人約三千名、多摩川を渉って来襲、住民と闘争中」
「横浜方面より襲来の鮮人約二千名、銃砲刀剣を携帯し、すでに六郷の鉄橋を渡る」
「軍隊は六郷河畔に機関銃を構え、鮮人の入京を遮断せんとし、在郷軍人や青年団が応援」………

洪水のような未確認情報に押し流され、正力ら警視庁中枢は動揺しはじめる。

さては朝鮮人騒ぎは事実であるか

次は、正力本人の証言である。

〈朝鮮人来襲の虚報には警視庁も失敗しました。大地震の大災害で人心が非常な不安に陥り、いわゆる疑心暗鬼を生じまして一日夜ごろから朝鮮人が不穏の計画をしておるとの風評が伝えられ淀橋、中野、寺島などの各警察署から朝鮮人の爆弾計画せるものまたは井戸に毒薬を投入せるものを検挙せりと報告し二、三時間後には何れも確証なしと報告しましたが、二日午後二時ごろ富坂警察署からまたもや不穏鮮人検挙の報告がありましたから念のため私自身が直接取調べたいと考え直ちに同署に赴きました。

当時の署長は吉永時次(よしなが・ときじ)君(のちに警視総監)でありました。私は署長と共に取調べましたが犯罪事実はだんだん疑わしくなりました。折から警視庁より不逞鮮人の一団が神奈川県川崎方面より来襲しつつあるから至急帰庁せよとの伝令が来まして急ぎ帰りますれば、警視庁前は物々しく警戒線を張っておりましたので、私はさては朝鮮人騒ぎは事実であるかと信ずるに至りました〉(『正力松太郎 「悪戦苦闘」』日本図書センター刊)

2日午後5時、警視庁は各署に次のような通達を発した。

「不逞者取締ニ関スル件 災害時ニ乗シ放火其他狂暴ナル行動に出ツルモノ無キヲ保セス、現ニ淀橋、大塚等ニ於テ検挙シタル向アリ。就テハ此際之等不逞者ニ対スル取締ヲ厳ニシテ警戒上違算ナキヲ期セラルヘシ」

デマをついに警視庁が事実と見なし、警戒態勢をとるよう指示したのである。この通達が流言の拡大に拍車をかけ、自警団、軍隊、警察による朝鮮人迫害・虐殺をエスカレートさせたのは間違いないだろう。

これが「馬鹿々々しき事件」なのか?

正力の証言はつづく。

〈私は直ちに警戒打合せのため司令部に赴き参謀長寺内大佐(寿一=ひさいち、のち陸軍大将、元帥。太平洋戦争中は南方軍総司令官)に会いましたところ、軍は万全の策を講じておるから安心せられたしとのことで軍も鮮人の来襲を信じ警戒しておりました。その後、不逞鮮人は六郷川(多摩川)を越えあるいは蒲田付近にまで来襲せりなどとの報告が大森警察署や品川警察署から頻々と来まして東京市内は警戒に大騒ぎで人心恟々(きょうきょう)としておりました。しかるに鮮人がその後なかなか東京へ来襲しないので不思議に思うておるうち、ようやく夜の十時ごろに至ってその来襲は虚報なることが判明いたしました。

この馬鹿々々しき事件の原因については種々取沙汰されておりますが、要するに人心が異常なる衝撃をうけて錯覚を起し、電信電話が不通のため、通信連絡を欠き、いわゆる一犬虚に吠えて万犬実を伝うるに至ったものと思います。警視庁当局として誠に面目なき次第であります〉

関東大震災で虐殺された朝鮮人の数は、政府発表では230名余、朝鮮人と誤認されて殺された日本人は57名、中国人にも4名の犠牲者が出た。

しかし、在日朝鮮人学生が結成した「在日本関東地方罹災同胞慰問班」の同年十月末までの調査によれば、虐殺された朝鮮人は2613人に上った(「同胞慰問班」のその後の調査で、この数字はさらに増え、6661人になった)。