# 哲学・思想

資本主義は一種の宗教←これがマルクス『資本論』の最重要考察です

資本家とは「合理的な守銭奴」のこと
大澤 真幸 プロフィール

守銭奴的な禁欲は、ゼロへの欲望でした。その「どの具体的な使用価値でもないこと」が、それ自体対象性をもつと、資本家の欲望になります。

つまり、どの使用価値でもないという否定性が、どの使用価値でもありうる変数xのようなものに転換する。この「抽象的・形式的な価値xへの欲望」によって、資本主義的な主体は定義できます。

私の考えでは、この形式と化した価値こそが剰余価値です。

「剰余」というのは、使用価値という具体的な内容に対する、形式の剰余です。この形式的な価値への欲望こそが、資本主義の特徴です。その「形式」は、実際には、貨幣というかたちをとります。

資本主義においては、どの使用価値にも還元できない「何か」自体が、欲求の対象となって崇められるようになる。資本主義というものを一つの宗教的なメカニズムと考えた場合に、そのメカニズムを統括している最終的な信仰の対象が剰余価値です。

「プロレタリアート」に潜む秘密

最後に「階級」の話をしておきたい。マルクスの概念として重要です。

剰余価値との関係で言えば、剰余価値を搾取する側と搾取される側ができる。それが、資本主義という社会を構成する2つの階級になります。

剰余価値を一種の「神」と見なすならば、とりあえず、剰余価値を得る側が、言ってみれば神に選ばれた者であり、剰余価値を得られず、搾取されている側は、神に見捨てられた者です。ここで、私が「とりあえず」と言ったことに注意しておいてください。

 

階級は、英語ではclass、そしてもとのドイツ語ではKlasseです。実は、これは、ほとんどマルクスの造語です。フランス語のclasseからマルクスはKlasseを造ったのですが、classeに、「階級」という意味があったわけではありません。

マルクス以前であれば、Stand(身分)と呼ばれるだろうものを指すのに、マルクスは、あえて、新奇なKlasseという語を使ったのです。どうして、こんな言い換えをしたのでしょうか。ここがおもしろいところです。

近代社会、つまり資本主義社会には、2つの階級がある。ブルジョワジーとプロレタリアートです。ブルジョワジーは資本家階級とほぼ同じ意味、プロレタリアートは労働者階級とほぼ同じ意味です。

ブルジョワジーとプロレタリアートはどこが違うか。教科書的に言えば、資本家は生産手段(たとえば土地とか、工場とか、機械とか)を持っている。それに対して労働者は生産手段を持たず、売ることができるものは労働力だけだ。

普通の教科書的にはこれでよいのですが、これだけでは、ブルジョワジー/プロレタリアートという概念のもつ重要なニュアンスは汲み取れてはいません。「労働者階級」と「プロレタリアート」は、指示対象としては同じなのですが、マルクスは、これらの語を使い分けていて、後者には、何かプラスアルファの含みがあるのです。

どんな含みなのか。このことが、マルクスが、わざわざKlasseという新語を使ったことと関係しているのです。

Klasseは、フランス語のclasseから来る、と言いました。このフランス語のもとにあるラテン語は、classisです。このclassisというのは、もともと、市民の中で兵士として召集された者を指しています。

そして、一説によると、ラテン語のclassisを語源にまで遡ると、ギリシア語のklēsisという語になる。このklēsisは、聖書の文脈では、とても重要な語なのです。この語に、ルター訳聖書が「召命(Beruf)」という訳語を充てたということを、後にマックス・ヴェーバーが重視する。

Berufの指示対象は「職業」ですが、直接的な意味は、「(神からの)呼びかけ」、英語ではcalling。日本語では「天職」という感じです。要するに、Klasseを源流にまで遡ると、神からの呼びかけがあるわけです。

残念ながら、この語源学は、今日の学問の水準から見ると成り立たないようです。つまりclassisはklēsisから来るという説は事実と合致しないらしい。

神の呼びかけに応じたプロレタリアート

この説は、間違いですが、魅力的でしかも啓発的です。このように言っているのは、イタリアの政治哲学者にして美学者でもあるジョルジョ・アガンベンです。

ここから、2つの階級のことを考えてみます。いわば、階級としての階級、最も階級らしい階級であるところのブルジョワジーは、資本主義の神に呼びかけられている者たちです。

そして、プロレタリアートは、神に見放されている階級です。これは、先ほど、「剰余価値」との関係で述べたことと合致します。その上で、もう一段のひねりがある。

神から見放されている(ように見える)者、つまり罪人こそが、ほんとうは神から呼びかけられている。これがキリストの言ったことでしょう。これと同じ逆説を、マルクスは、プロレタリアートに見ていたのではないか、と思います。

キリスト教の神が罪人に呼びかけるように、いわば、真の神は、プロレタリアートに呼びかけるのです。

『ヘーゲル法哲学批判序説』でマルクスが書いていることを読むと、ほんとうにそういう印象をもちます。ドイツ解放の可能性は、「ラディカルな鎖につながれたただひとつの階級の形成のうち」に、「市民社会のどんな階級でもないような市民社会の一階級」「あらゆるシュタントの解消でもあるような一シュタント」にこそある、と。

もちろん、それは、プロレタリアートのことです。

つまり神の呼びかけに応じたプロレタリアートが立ち上がったとき、革命が起き、資本主義は乗り越えられる、というわけです。

この続きは、大澤真幸著『社会学史』で!