# 哲学・思想

資本主義は一種の宗教←これがマルクス『資本論』の最重要考察です

資本家とは「合理的な守銭奴」のこと
大澤 真幸 プロフィール

剰余価値の発生メカニズムの説明は通常、いまや悪名高き労働価値説をベースにしています。労働価値説自体はマルクスの独創でも何でもありません。当時の、古典派経済学の主流の考え方です。

ただ、マルクスの場合は、価値形態論が間に入っているので、ふつうの労働価値説とかなり違いますが、ここでは説明を省きます。ともあれ、労働価値説をベースにして、マルクスは剰余価値を導き出すという論理になっています。

ふつうはどういう説明になっているか。わかりやすく言えばこういうことです。

市場において等価交換しかしていないはずなのに、どうして剰余価値が出てくるのか。おかしいではないか。どこかで詐欺が行われているのではないか。

しかし、マルクスは、市場の法則に従っていて、どこにも詐欺の要素がなくても、剰余価値が発生することを説明しました。ポイントは、労働力という商品が特別な商品だという点にあります。

労働価値説によれば、すべての価値は労働にもとづいています。つまり労働力は唯一、価値を生む商品なのです。他の商品は、そこに投下された労働によって価値をもってはいますが、自分自身が価値を生み出す力はない。

しかし労働力という商品だけは、その商品自体が価値を生むという性質をもっている

雇い主は、労働者に賃金を払います。これが労働力を買うということであり、雇い主は、労働力商品の価値に見合う賃金を払っているわけです。その買った労働力商品が、あらたに価値を発生させる。

ところが、労働力商品を買うときに支払った価値と、労働力そのものが生み出した価値の間に落差がある。労働力が生み出す価値のほうが大きいのです。それが剰余価値になる。

かなりあやしげな説明

どうしてそのような価値の落差が生ずるのか。まず、労賃はどうやって決まるのか。労働力の価値は、他の商品と同じ原理で決まります。

たとえば、このペンの価値は、このペンを生産するために投下された労働時間によって決定される。ということは、このペンを生産するのに必要な労働力の価値と同じということです。労働力商品についても同じ論理が働きます。

たとえば、A君を雇うとする。A君に賃金を支払う。賃金は、A君に帰属する労働力商品の価値と対応しています。この労働力商品の価値は、先ほどのペンと同じで、A君という労働力が再生産されるのに必要な価値ということになります。その価値に対応する金額を労賃として支払えば、A君の労働力を買うことができる。

思い切り単純化してはっきり言ってしまえば、雇い主は、A君が生き延びられるだけ払えばいい。A君が、明日も元気な労働力として働けるように生き続けるのに必要な費用が、賃金に対応している。

もちろん、A君が労働力として維持されるためには、食べたり、住んだり、その他いろいろなことをしなくてはなりませんから、そうした分の費用が賃金に含まれます。

ところが、A君は、それよりももっと働いてしまう。

たとえば、A君が生きるのに1日1万円必要だとする。ところが、A君は自分自身の労働力を1労働日分使うことで、1万3000円に相当する価値を生み出してしまうのです。その3000円が剰余価値に対応します。

正直なところ、これは、かなりあやしげな説明です。ともかく、細部の厳密さを犠牲にして簡単に言えば、剰余価値の生産はこういう論理に従っている、とされています。

今日ではしかし、労働価値説がそのまま信じられてはいませんから、剰余価値についての、この教科書的な説明をそのまま受け取るわけにもいきません。

ちなみに、森嶋通夫の『マルクスの経済学』という本が、どのような条件が揃っていれば、労働価値説が成り立つかということを厳密に検討しています。

マルクス経済学の用語を使えば、この本は「転形問題」──「価値」が「価格」にどのように転形するかという問題──を扱っているということになりますが、われわれの観点からすると、教科書的に解釈した場合の労働価値説がどこまで妥当するのか、その守備範囲をはっきり確定した仕事と見なしてよいでしょう。

ともあれ、剰余価値の発生についてのこの説明はそのまま額面通り受け取らなくてもよいのですが、だからといって剰余価値という概念を捨ててしまってもよいわけではありません。剰余価値を抜きにしたら、資本、あるいは資本主義という現象の特異性を捉えられなくなってしまうからです。

つまり、この剰余価値という現象がもっている独特の含みを忘れてしまうと、資本主義のメカニズムの肝心な部分を説明できなくなります。

だから、ここでは、労働価値説に直接は依存しないかたちで、剰余価値の意味を考えてみたい。

合理的な守銭奴が資本家

先ほど、守銭奴との関係について言いました。これを、前近代的主体と資本家(近代的主体)の媒介に使います。すると、前近代的主体─守銭奴─資本家(資本主義的主体)という3段階を得ることになります。

前近代的主体の段階、つまり貨幣が「神」になる以前はどういう状態か。人はもちろんその段階でも貨幣を使い交換したり、あるいは贈与したりする。

 

いずれにせよ、そうした広義の経済活動の目的は、貨幣にあるのではない。貨幣によって何かを手に入れることが目的です。

だから、前近代的主体は、ある具体的な使用価値(a)を目的として生きているわけです。つまり、前近代的主体を駆動しているのは、「使用価値aへの欲望」です。

次に守銭奴とは何か。守銭奴は、最終的な消費の対象となるような商品を買うことを恐れている。ですから、守銭奴は、使用価値aもいらない、bもいらない、cもいらない、dもいらない……と言っているに等しい。

彼は、何かを享受することから逃げているのです。だから、すべてを断念する。ゆえに守銭奴は、ナッシングへの欲望、「ゼロへの欲望」によって定義されます。

それでは、守銭奴と近代的な資本家の違いはどこにあるか。

守銭奴はすべてを断念して、貨幣だけ集める。しかし、貨幣を持っているだけの状態では、貨幣は増えない。貨幣を増やすためには、逆に貨幣を使ったほうがいい。

資本家は、貨幣を増殖させるためには、貨幣を使用したほうがよいことを心得ている。資本の蓄積のために資本を投下するわけです。

このとき、守銭奴から資本家への飛躍が実現する。守銭奴と資本家の違いは、合理的か合理的ではないかです。合理的な守銭奴が資本家だということになります。