講談社現代新書の通巻2500番として発売された、大澤真幸著『社会学史』。その中から今回は、カール・マルクス『資本論』を論じた一部を特別公開します。守銭奴と資本家の違いは何か。なぜ彼は「階級」という言葉を造ったのか――偉大な知の営みが頭に染み込んでいく、本物の教養体験をどうぞ!
マルクスは資本主義的生産様式が支配的な社会のことを近代と考えた。
その近代の分析の書としての『資本論』の、事実上の最も重要な洞察は、資本主義は一種の宗教だ、ということではないかと私は考えます。
近代を成り立たせたものはある種の無意識の宗教である、と。「宗教としての資本主義」というのはヴァルター・ベンヤミンが後に使った言葉ですが、マルクスが言っていることはそれに近いと思います。
熊野純彦さんが、『マルクス 資本論の思考』という大きな本を書いています。『資本論』を本格的にきちんと読みたいときに横に置いておくとたいへん便利です。流れにそって、またそれまでの研究蓄積をふまえて解説してありますから。
その本の最後に、熊野さんは、『資本論』というテキストの中に隠れている宗教批判としてのモチーフについて、書いています。これはなかなかすばらしい。
マルクスと宗教というと、「宗教は民衆のアヘンだ」という命題が有名です。しかし、この「民衆のアヘン」というのはマルクスの独創でも何でもなくて、当時のヘーゲル左派の間では紋切り型の言い回しでした。フォイエルバッハ的な疎外論がその理論的な裏付けです。
むしろ、マルクスの優れている点は、もっと細部にあります。「経済学批判」というのが『資本論』の副題です。
「経済学批判」と聞くと、経済学という特定の学問分野の批判だと思われるかもしれませんが、実は同時に宗教批判にもなっているのです。そういうところが、マルクスの非常に重要なところだと熊野さんは指摘しています。
それはまったく正しいと思います。
実際、『資本論』は、いたるところに神学的な隠喩が使われていますが、それは、ただの文学的な修辞の問題ではない。内容に即した本質的な意味があります。
物象化論や価値形態論についてのここまでの説明の中でも、すでに、資本主義の宗教性について理解してもらえたとは思いますが、ここでは、さらに立ち入って考えておきます。後に出てくるマックス・ヴェーバーの伏線にもなるからです。
マルクスは、資本、あるいは資本家という現象を理解するためには、まず守銭奴との関係で理解したほうがいい、と言っています。守銭奴、貨幣を貯め込んでいるケチな人ですね。
マルクスによれば、守銭奴は資本家の一歩手前です。資本家の零度のようなもので、もう少しで資本家になる。どういうことか、マルクスの言葉をそのまま引用しましょう。
守銭奴は一見、金に汚くて、金のことばかり考えている最も世俗的な人間に見えますが、考えてみると非常に禁欲的です。貨幣を使って、何かを入手し、それを享受することはないのですから。
その過剰な禁欲さに、マルクスは、宗教に通じるものを見たのです。これをさらにシステマティックに考え抜いたのが、マックス・ヴェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』です。
マルクスは、ヴェーバーのようにそこを中心的に論じたわけではありませんが、守銭奴の中にプロテスタント・タイプの禁欲があると考えたのです。
これに関して、「剰余価値(独Mehrwert, 英surplus-value)」という、いまやあまり使わなくなったマルクス用語を復活させておきたいと思います。
剰余価値は、ざっくり言えば、利潤に近い概念です。厳密には違いますが、そして最終的にはその違いを理解することこそが重要だとも言えますが、とりあえず、普通の用語との対応としては、利潤に近いものだと思ってください。
資本の特徴、資本の定義は、その回転と転態を通じて、剰余価値を生むことです。その剰余価値を資本家が搾取しているということが、マルクス主義者による社会批判のポイントになります。
しかし、剰余価値はどうして生まれるのか。等価交換しかしていないのに──というか等価性は交換という事実から決定されるのですから交換は定義上等価交換なのに──、どうして剰余価値が生まれるのか。
これが『資本論』における最も大きな問いです。