「なぜ私を産んだ!」親や医師を訴えるロングフル・ライフ訴訟とは何か

「反出生主義」という思想
加藤 秀一 プロフィール

だからベネターの思想そのものは別に目新しくはない。だが、それを論証するプロセスは興味深いものだ。「快楽は良く、苦痛は悪い」という常識的な前提から出発しながら、分析哲学と呼ばれるスタイルを用いて緻密に論証を積み上げ、最終的に「生まれることは生まれないよりも悪い」という結論に読者を追い込もうとするのである。

残念ながら、ここではその入り組んだ議論をこれ以上追いかけることはできない。ベネターの主著(『生まれてこない方が良かった――存在してしまうことの害悪』)が邦訳されているので、興味が沸いた方は挑戦していただきたい。

ベネターのようなガチの反出生主義と比べると、サミュエル氏の主張はやや風合いが異なる。人生そのものの価値を否定するという厭世主義的な面があまり目立たないからだ。とはいえ、人は生んだり生まれたりするべきではないという結論は同じだし、当人の同意なしに子どもを生むのは親の身勝手だという主張も、確かに反出生主義の論点ではある。

 

もちろん、まだ生まれていない(=存在していない)子どもの同意をとるという考えは矛盾もいいところであり、現実にはありえない(芥川竜之介の「河童」では、母親の胎内にいる河童の胎児が「僕は生まれたくない」と言うが、そのような発言ができるなら、その子は実はすでに存在しているということだ)。だからこそ、その矛盾した主張を大まじめに(?)掲げるサミュエル氏が注目を引いたわけだ

だが、こうした反出生主義的な主張を掲げて裁判を起こしたのは、実はサミュエル氏が初めてではない。「同意」の有無を強調するかどうかは別として、「自分を生んだこと」を理由として親を、あるいはそれ以外の関係者(くわしくは後述)を訴えるという構図の訴訟は「ロングフル・ライフ(誤りである生命)訴訟」と呼ばれ、その意味をめぐって激しい議論が繰り返されてきたのである。

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「生まれたこと自体が損害」?

最初のロングフル・ライフ訴訟は、1963年にアメリカのイリノイ州で起こされた「ゼペダ対ゼペダ訴訟」だとされている。これは、血縁上の父親が自分の母親と浮気をした結果として生まれた子が、非嫡出子として生を受けたがゆえに被った損害への賠償を求めて父親を訴えたケースである。

結果的に裁判所は訴えを退けたのだが、その理由を知ることはこの問題のひろがりを理解するために有意義なので、少しくわしく説明したい。ややマニアックな話題に踏みこむことになるが、どうかご容赦願いたい。

ゼペダ判決は、原告の主張のポイントを「自分にとって生まれたことそれ自体が損害である」という発想であると受けとめ、そのような生命の観念を「ロングフル・ライフ」と名づけた。

それは、こういうことだ。被告である父親は原告の母親と結婚する気などハナっからなかったのだから、原告が父親の嫡出子として生まれることはありえなかった。他方、もし父親が母親と浮気をしなければ、そもそも原告は生まれなかっただろう。つまり、原告にとってありえたのは「非嫡出子として生まれるか、それとも生まれないか」のいずれかのオプションだけだった。酷い話ではあるが、現実をありのままに見れば、そう言わざるをえない。

したがって、原告の境遇がもたらす苦しみを、原告が生まれて存在しているという事実から切り離すことはできない。原告の主張は、自分の生そのものが損害であるという意味にならざるをえないのである。