2019.03.16
# 本

作家山本一力が、同郷のジョン万次郎を通じて語る歴史小説の魅力

最初にアメリカで学んだ男の奇跡の冒険
谷村 鯛夢 プロフィール

日本人がなしとげた「咸臨丸太平洋横断」の虚実

――万次郎は帰国後、「とんでもない知識と技量を持った男」として評価され、土佐藩士の中濱万次郎となり、ほどなく幕府直参の旗本に取り立てられた。その後の活躍のハイライトは「咸臨丸の太平洋横断」であり、万次郎は勝や福沢諭吉らとともにふたたび太平洋を渡っている。

山本さん「この咸臨丸の太平洋横断は、すべて日本人の手で操船された。もちろん、日本初の快挙です。土佐出身の中濱万次郎も大活躍した。こういう話を高知の小学校の先生は誇らしげにしてくれました。咸臨丸がとった〈大圏コース〉、つまり大洋を渡るときの地球上の最短コースを示す大きな半円を黒板に書いてくれたことも鮮やかに思いだしますよ。敗戦後の負い目がある頃ですから、子供心にもこの話はうれしかったことをよく覚えています。そして勝海舟も福沢諭吉も〈すべて日本人でやった〉と書いています。

でもね、これがすべて、うそだった。そのことが今回のこの龍馬記念館の特別展で展示されている「ブルック大尉の日記」や米軍のブルック大尉への命令書でよくわかりました。いやあ、びっくりしました」

――実は,咸臨丸の太平洋渡航を危ぶんだ幕府が、事情で日本に滞在していた米海軍のブルック大尉とその部下の咸臨丸乗船と操船補助を依頼していた。その依頼を受けた米軍から、ブルック大尉に向けた命令書も出た。しかし、表向きは「アメリカに帰るブルック大尉たちを便乗させてやるのだ」といいうことになっていた。そして、水戸斉昭らから「アメリカのスパイ」と疑われていた万次郎も、大尉たちの通訳という名目で、ぎりぎりで乗船が認められたのであった。

山本さん「咸臨丸には勝海舟以下百名近くの日本人乗組員がいたけれど、外洋に出たとたん,ほとんどの者が船酔いで役に立たないことになった。艦長の勝などはひどい船酔いで部屋にこもりきりだったという。こういうことは,ブルック大尉の日記にすべて書かれていたんですね。

咸臨丸が太平洋の荒波を乗り切れたのは、万次郎とアメリカ海軍軍人の卓越した操船技術のたまものであった。捕鯨船で鍛えた万次郎とプロの海軍軍人の腕の見せ所でもあったのでしょう。

歴史は権力者に都合のよいように書かれること多々です。このときも幕府の公式見解は〈日本人のみでの太平洋横断〉だったのでしょう。でも、歴史的事実は、まるで違っていた。このことだけでも、どれほど第一次資料にあたることが大切なのかがよく分かります」

さらに山本さんは、勝や福沢が「日本人のみで横断した」と書かざるを得なかった事情にも理解を示しながら、また、総指揮官木村摂津守の誇り、ブルック大尉の誇り、万次郎郎の誇りにも触れながら、「やはり、大事なのは第一次資料」と語り、講演を締めくくった。

この後には、山本さんが司会役にまわり、北代さんと前田さんとの座談会が和気藹々とひらかれ、北代さんからは「ブルック大尉の日記」発見のよろこびと資料探索の苦労がこもごもに語られた。それを受けた山本さんからは「これで、私の小説〈ジョン・マン〉の最後の場面が決まったような気がします。皆さん、いまの北代さんのコメントは秘密にしておいてくださいね」とのコメントが。これに会場がどっと笑いに包まれたところで、座談会は大団円となった。

関連記事