女性版『おっさんずラブ』は可能か…本気で考えて見えた大切なこと

「今さら」と言わず読んでください
森山 至貴 プロフィール

同性を好きになることの自己受容、異性愛男性を好きになることの絶望的な苦悩、恋人との関係を周囲に隠しておくことに関する双方の温度差ゆえのすれ違い、家族との関係をめぐる困難、同棲にともなう日々の細々とした不満の蓄積、職場でカミングアウトすることへの不安…。

一応私もひととおり経験しているので、それらに関する印象深い描写に胸を打たれたし(ここ、私の視聴体験を100倍くらいに希釈したかなり穏やかな表現になっていると思ってください…結局自意識が激しく不恰好に巻き込まれる視聴体験となったことを白状します)、それらを描き切って多くのファンを得たという点ひとつとっても、意義があるエポックメイキングな作品であることは間違いない。

 

むしろ、だからこそ私は女性版『おっさんずラブ』の困難が指し示すジェンダー非対称性が気になるし、気にすべきだと思うのである。

恋や愛は、(みながそれをすべきだとは思わないし、すべきだと言うべきではないと思うけれども)それを望む人にとっては尊いものであるし、あってよいと思う。けれども、その恋や愛の尊さを生きる資源や余裕を誰もが均等に分け与えられているわけではない。この文章が示してきたのは、どうもその資源や余裕は男性に多く分け与えられているようだ、ということである。

あるいはそもそも、『おっさんずラブ』が多くのファンに受容されたのは、(男性同士や女性同士ではなく)男女のカップルに圧倒的に恋や愛の資源と余裕が分け与えられている現状をひらりと覆しうる物語を提示したからだろう。

おそらく、「分け与えられている」などと受動的に書いてはいけないのだ。そのような資源と余裕の偏りは、私たち自身が作りあげたものだからである。誰が恋や愛の尊さを生きることができるのか、そこに存在する偏りをならす努力を、わたしたちは怠っていないか。『おっさんずラブ』が問いかけるのは、そういう問いであるように私には思われるし、私のこの拙い文章が問いかけたいのもまた、そういう問いなのである。