「なぜひとは自殺するのか?」に対して、120年前に出された答え

デュルケーム『自殺論』を読み解く
大澤 真幸 プロフィール

個人の行動は、社会が決めている

社会が常に動くというのは、社会が、ある意味で不断に道徳や規範を侵食しながら、人々の間のつながりを崩し続けている、ということです。この認識は、デュルケームにとっては、社会学者としての終生の課題と関係があります。

それが、社会的分業論や宗教論へとつながっていくのですが、その前に、『自殺論』を参照しながら、それをもとに『社会学的方法の規準』で言っていることを翻訳します。『社会学的方法の規準』だけを読むと、抽象的な原理しか言っていないのでもうひとつピンとこない。

 

しかし、『自殺論』をもとに、1895年の『社会学的方法の規準』の内容を説明するとわかりやすいのです。

『社会学的方法の規準』の中で一番有名なテーゼは、「社会は物(仏chose, 英thing)である」です。どういうことかというと、「物である」ということは、2つのことを意味しています。

第1に、個人の観点に立った場合に、社会は自分の外にある客観的な対象のように感じられるということ。つまり社会の外在性。

第2に、社会は個人の行動を規制する拘束性をもっているということ。社会は個人の意志から独立に存在し、あるいは個人を束縛する。

個人を、自己本位的自殺とか集団本位的自殺へと向かわせる力のことを思うとよい。あるいは、私たちは、社会の規範やルールや制度や法は、自分が作ったわけではないのに、守らなければいけないと思っている。

だから、社会は、個人についての性質(どんな気持ちをもっているか、何を欲しているか、どういう行動パターンを望むか、など)の総和からは、独立して存在していることになります。

マルクスの物象化論も、実は、同じことを認識しようとしていた、と言えます。デュルケームは、それを、より自覚的に取り出したと言えます。

個人に対して、外部から強制力をもって束縛する集合的な現象のことを「社会的事実(faits sociaux)」と言います。集合的な規範・思考・習慣・法則のようなものが社会的事実です。当たり前のような言葉だけど、社会学の用語になっています。

たとえば何が社会的事実か。もちろん、制度や規範や法といったものはそうですが、それだけではない。

『自殺論』に戻ると、あるカトリックの集団を見ると、ほぼ毎年同じレベルで自殺者が出る。各当事者はあくまで個人的な事情で自殺しているのに、明らかに集団の傾向があるわけです。集団の傾向とは、その集団がもっている性質です。

カトリックであるがゆえに集団がもっている凝集力とか、プロテスタントであるがゆえに集団がもっている(弱い)ソリダリティ(連帯性)とか、そういうものが本人は意識していなくても、自殺を踏みとどまるか、あるいは自殺してしまうかというところに作用している。

つまり、自分では気づいていない、自分の外にある集団のもっている性質が、その人の行動を最終的に強く規定するわけです。

それがために、集団は、自己本位的自殺や集団本位的自殺を一定の比率で生み出す傾向をもつわけですが、これもまたfaits sociauxです。

特に、こういう社会的事実が人間集団の観念の産物であるという側面を強調したときには、「集合表象(représentation collective)」として捉えられる。

宗教などは、その典型です。マルクスの言う「イデオロギー」ともつながりを認めることができる概念です。

比べることで、初めて見えてくるもの

社会学史のテキストとしてどうしても言っておかなければいけないのは、こういうデュルケームのようなスタイル、社会学的な考え方を「方法論的集合主義(methodological collectivism)」と言います。

この「方法論的」というのは、学問のものの考え方としての集合主義という意味です。だから、「集団で仲良くするのがすばらしい」というナショナリストとか愛国主義者のようなことではなくて、社会学の説明の論理として、社会や集団がもっている集合としての性質を──個人の性質や行為に還元することはできないと見なして──前提において、そこから現象を説明する方法です。

数学の言葉を使えばこうなります。関数に、独立変数と従属変数があるわけです。独立変数のほうが説明要因となって、その結果として従属変数がある。

この場合は、たとえば社会がもっている凝集力であるとか、連帯の強さが原因になって、ある個人がどのくらいの比率で自殺するかが決まる。そういうふうに、集団の性質から個人の行動を規定するような方法で説明するのが、方法論的集合主義です。

それと対抗軸にあるのが「方法論的個人主義(methodological individualism)」です。その代表はマックス・ヴェーバーだということになっています。

方法論的集合主義と方法論的個人主義は、いまだに社会学の説明論理の二大様式とされます。デュルケームとヴェーバーは、いちおうスタンダードとしては、それぞれこの方法を代表させる、そういう理解になりますが、そう簡単に集合主義と個人主義が分かれるものでもありません。そうしたことはあとで話します。

もう1つ重要なことを言っておくと、当時の、マックス・ヴェーバーにしてもデュルケームにしても、社会学をどうやって経験科学として、客観性のある厳密なものにするかということに、非常に気を遣っています。

社会科学系の学問の弱みは、実験ができないということです。そこで、何を実験に相当するものとして見るのか、というのがポイントになる。

デュルケームは結局、「比較」という方法しかない、と言います。私もよく比較社会学という言葉を使いますが、要は社会学とはすべて比較社会学になるんだ、ということです。

たとえば、先ほどの自殺率を何が決定するのかということは、プロテスタントの地域だけをいくら眺めていてもわからない。プロテスタントが優勢な地域とカトリックが優勢な地域とを対比したからこそ、「自己本位的自殺」なるものがあることが見出されたわけです。

他にも、階級ごとにデータを見てみるとか、文明圏を対比させてみるとか、比較はいろいろな基準で設定できます。そうやって比較をすると初めて何が作用しているのか、何が利いているのかがわかる。だから、比較が社会学では実験に当たるのだと、デュルケームは言っているわけです。

この続きは、大澤真幸著『社会学史』で!

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