「なぜひとは自殺するのか?」に対して、120年前に出された答え

デュルケーム『自殺論』を読み解く
大澤 真幸 プロフィール

好景気でも自殺が増える

次に、集団本位的自殺とは何か。この類型の自殺は、デュルケームによれば近代社会にはほとんどありません。しかし、伝統社会にはよくある。

たとえば、殉死です。主君に殉じるとか、あるいは宗教的な理由での集団自殺などがあります。崇拝する他人のためとか、集団の大義のための、しばしば義務的な自殺を、集団本位的な自殺と呼びます。

現代にはあまりないが、軍隊においてのみ稀に見られると、デュルケームは書いています。

 

個人または集団に準拠した自殺を挙げたわけですから、これで論理的な可能性は尽きるように思いますが、デュルケームはこれら2つに、もう1つアノミー的自殺を加える。ある意味で、これがいちばん重要です。これが考えどころになります。

「アノミー(anomie)」はデュルケームの概念です。いまではふつうに使われる言葉になりましたが、これを社会学の中に入れたのはデュルケームが最初です。後で触れる『社会分業論』という主著で、この概念を導入しました。

アノミーとはどういう状況のことか。「無規制状態」と訳す場合がありますが、要するに社会的な規範がもっている、人間に対する拘束力が低下して、社会解体の傾向が生じている状態です。社会秩序が不安定化している状態であると言ってもよい。

アノミー的自殺と自己本位的自殺の区別が微妙です。デュルケームははっきり区別できると力説に力説を重ねるのですが、あまり力説されると、自信がないのかなとも感じてしまう。

よく言われることですが、自殺率と経済的な好不況を見ると、不況のときに自殺率が高くなる。

実際、デュルケームが調べた19世紀後半のフランスは非常に景気がいいのです。普仏戦争があって第3共和制になって、景気がいい。それなのに、自殺率もすごく上がっている。

不況のときだけでなく、好況時にも自殺率が上がるのはどうしてか? こういうときに増えているのがアノミー的自殺だ、とデュルケームは言います。

どういうことか。景気がよくてどんどんうまく行きそうな気がする。そうすると人間は歯止めが利かなくなって、分不相応のことまで望むようになります。だんだん欲望が肥大化していく。

それで順調に行けばよいのですが、欲望が十分に大きくなったあとだと、ちょっとした挫折でも失望感が大きい。好調なときにいきなり失敗すると、挫折感が極端に大きくなるわけです。

もう少し一般化して言うと、社会変動が激しく、人間の欲望を抑制する枷──階級や宗教や政治権力や同業組合などの枷──となっている要素が失われたときに、アノミー的自殺が生ずる。

近代社会は自転車みたいなもの

そうすると、個人が共同体とのつながりを弱め、自由になったときに増える自己本位的自殺と、アノミー的自殺の関係はやはり非常に微妙です。

論理的に考えても、自己本位と集団本位があって、いきなりアノミー的というのは、分類の基準として変ではないか? 北と南と、そして──西がないのに──東みたいな感じで。

この2つの類型の区別が不明確である、ということは多くの論者が指摘してきたことです。デュルケームを離れて言っておくと、私は自己本位的自殺とアノミー的自殺は同じものだと思います。

デュルケームは「自己本位的自殺は意気消沈する自殺で、アノミー的自殺は激怒する自殺」だから、両者は違うと書いていますが、それはどっちもどっちでしょう。自己本位的自殺だって、自殺するにはそれなりにエネルギーがいるでしょう。アノミー的自殺にしても、その怒りが失われて、落ち込んだときに自殺するわけです。

どちらの自殺でも、希望を絶たれたときの失意や鬱と、自らの命を絶とうとしているときの激情の両面があるわけです。だから、この2つの自殺類型は区別しにくい。

しかし、この2つが区別しにくいことが、まさに近代社会というものの特徴を表しているとも言えます。

近代社会が近代以前の社会とどこが違うかというと、不断に変化することが常態であるという点です。それ以前の社会では、「安定している」というのは、変化がないということと同義です。

しかし、近代社会は自転車みたいなものであって、動いていないほうが不安定になる。近代社会は、不断にアノミー状態を生成することを常態とするような社会です。

そのため、近代的な自殺とは結局、見ようによってはアノミー的自殺であり、見ようによっては自己本位的自殺になる。この点は、分業について論じたあとに、再論いたします。