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# 社会学

「なぜひとは自殺するのか?」に対して、120年前に出された答え

デュルケーム『自殺論』を読み解く

講談社現代新書の通巻2500番として、本日から発売された、大澤真幸著『社会学史』。その中から今回は、エミール・デュルケームを論じた一部を特別公開します。好景気でもなぜ人は自殺してしまうのか――偉大な知の営みが次々とあなたの頭に染み込んでいく、本物の教養体験を味わいましょう!

豊かになると幸せになる、は本当?

デュルケームらしさが一番はっきり出ているのは、『自殺論』(1897年)です。

デュルケームの重要な著作は、1897年に出たこの著作よりも前に、2つ──そのうちの一つが、『社会学的方法の規準』で、もう一つが『社会分業論』──ありますが、それらの紹介は後にまわし、デュルケームがもたらした革新がはっきりと現れている本書から紹介します。

 

そのモチーフを言っておくと、こうなるでしょう。多くの人が十分に吟味することなく信じている常識に、「人間は、近代化すると豊かになって幸せになる」、つまり近代化は人間の幸福を増進(あるいは実現)するという幸福仮説があります。これは、功利主義的な世界観をもとにした命題です。

しかし、その仮説は本当だろうか? 『自殺論』は、この仮説を斥けることをひとつの目的としていたのではないか(日本の社会学者の富永健一さんはそう解釈しています)。

しかし、人間が幸福か不幸かを判断するのは難しい。「幸福」を口にするからといって、その人が幸福とは限りません。

エミール・デュルケーム

デュルケームは、自殺をメルクマールにしてみました。自殺する人は自分を不幸だと感じているということが前提になります。この前提が成り立つなら、自殺の頻度を尺度にして、幸福仮説が当たっているのかどうかを見ることができる

これが背後にあるモチーフです。

必ず涙する話に、大爆笑

余談になりますが、私は、アマゾンの奥地に、文明から隔離されて生きている狩猟採集民「ピダハン」を研究した、言語学者ダニエル・エヴェレット(Daniel Everett,1951─)の書いていたことを思い出します。

エヴェレットのアカデミックな目的は、ピダハンの言語の研究で、それをもとに、彼は生成文法の基本的なアイデアを反証する重要な発見をするわけですが、いま話したいことは、そのことではありません。

エヴェレットは、現地に入ったときキリスト教の宣教師でもありました。ピダハンにキリスト教のことを説くわけですが、なかなかウケない。

そこで、最後の決めの話をするのです。いままでの経験から、どんなに頑固で、キリスト教に拒否反応を示していた人でも、この話を聞くと、涙を流し、感動し、そして入信を決意するのだそうです。

それは、彼のオバの自殺についての話でした。ところが、ピダハンがこの話にものすごく意外な反応をしたのです。ある意味、ウケたわけですが、みんな、大爆笑したのです。「文明人」を相手にしているときには、必ず、ここで涙するという話に、です。

ここには、「自殺」ということに関して、私たちとは何かまったく異なる感性があることがわかります。

デュルケームに戻りましょう。自殺の話題のついでに言っておくと、この人はちょっと冷めているところがあって、「犯罪は社会にとって必要悪である」とはっきり言っています。

犯罪は、社会の中で何が規準になってみんなが生きているか、その規範や制度や法を顕示するために必要なのであって、正常な社会の中には一定率あると考えている。

では、自殺はどうか。自殺も現実には一定率あるわけですが、こちらに関しては、本来であれば限りなくゼロであるべきだという感覚が、デュルケームにはあります。

したがって、自殺がどのくらい出るかというのが、社会の「逸脱度」を示す指標になるわけです。