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# 政治・社会

国のせいとは知らずに…優生保護法、「何もしない」ことの暴力

細胞が権力のターゲットになる時代

国が生殖機能を奪う

「裁判官の皆様には、まず、個人の意思に反して生殖機能を奪うという、人を人とも思わないこの法律が、いかに人々を傷つけてきたのかをご理解いただきたいです」

昨年8月6日、東京地方裁判所で、北三郎(仮名)はそう訴えた。旧優生保護法に基づく強制的な不妊手術を受けさせられた人たちが国に謝罪や賠償を求めて一連の訴訟を起こしている。北はその1人であり、この日は第1回口頭弁論だった。

 

優生保護法とは「優生上の見地から不良な子孫の出生を防止する」ことを目的として、1948年に制定された法律であり、障害者や遺伝性疾患を持つ人に対する強制的な不妊手術や人工妊娠中絶を認めていた。

この法律に対する批判は多く、1996年にそのような優生思想的な条文が削除され、「母体保護法」へと改定された。

この改定の段階で、この法律によってもたらされた被害の調査がなされたり、「生殖機能を奪」われた人たちへの補償がなされたりすることはなかった。

しかし昨年1月30日、不妊手術を強制された宮城県の女性が国に1100万円の損害賠償を求めて仙台地方裁判所に提訴し、そのことが広く報じられた。それに応じて全国の報道機関などがこの問題に取り組み始め、これまで知られていなかった事実が次々と明らかになっている。

北もまた、国に謝罪と賠償を求めて裁判を起こした1人である。ここで北が問題にしているのは、優生保護法という法律が、それを運用した国が、「生殖機能を奪」ったことである。

政治が「死ぬべき細胞」を決める

筆者は『ゲノム編集と細胞政治の誕生』(青土社)で、先端医療技術を通して行使される権力が行き届いた社会状況を「細胞政治」と命名した。拙著では優生保護法問題には触れられなかったのだが、この問題もまた、細胞政治の展開と密接に関係している。

フランスの思想家ミシェル・フーコーは、社会が近代化するにつれて、それまでの専制君主国家で機能していた「死なせる権力(=死権力)」が後退し、近代国家では「生きさせる権力(=生権力)」が台頭するようになった、と指摘した(『性の歴史Ⅰ 知への意思』、新潮社)。

その生権力には、個々人に働きかける「解剖政治」と人口に働きかける「生政治」という2つの形態がある、とフーコーは分析した。

筆者はフーコーのこの分析を念頭に、先行する論者たちの議論も参考にしながら、現在の生権力には細胞やDNAに働きかける「細胞政治」という第3の形態があると拙著で述べた。

生政治は人口統計学などのほか公衆衛生や社会医学として人口に働きかける。解剖政治は軍隊や学校などのほか病院など一般的な医学として個人に対して駆動する。そして細胞政治は生命工学(バイオテクノロジー)を駆使した医療技術を通して細胞やDNAに焦点を向ける、と。

また、生権力は「作為」と「不作為」という2段階で作用する(表参照)。

フーコーは、そこに「人種主義」が介在して、「生きるべき者」と「死ぬべき者」との間に「切れ目」を入れる、と説明する(『社会は防衛しなければならない』、筑摩書房)。つまり生政治は、生きるべき(存続すべき)人口集団と死ぬべき(衰退すべき)人口集団との間に、解剖政治は、生きるべき個人と死ぬべき個人との間に、切れ目を入れる。

そして細胞政治は、生きるべき細胞――それには精子や卵子、受精卵なども含まれる――と死ぬべき細胞との間に切れ目を入れる。そして生政治でも解剖政治でも細胞政治でも、前者には「生きさせる」という作為で働きかけ、後者には「死ぬままにしておく」という不作為で働きかける。