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相次ぐジャーナリストのハラスメント疑惑へのジャーナリストの一考察

権力に対抗するとはどういうことか

「パワー=権力」とは何か

反権力という言葉が使われるとき、その「権力」はたいてい政治権力を指している。時の政権であり、大統領や首相や与党である。しかし権力は何も政治権力だけとは限らない。人間の集団が生まれれば、かならず権力は生まれてくる。

権力は英語では、シンプルにpower(力)という単語が使われる。権力=powerの定義としては、アメリカの政治学者ロバート・ダールが1957年に発表した論文の一節が有名だ。

「AがBに対して、そうしなければBが行わなかったことをさせたとき、AはBに対して権力を行使したと言える(A has power over B to the extent that A can get B to do something that B would not otherwise do.)」

これだけでは物足りないという指摘もある。BがAに服従して洗脳されるような状態にあると、Bはそもそも意志の自由を持っていない。だから政治学者スティーブン・ルークスは、知らず知らずに思考を変えさせてしまうような権力もあると指摘した。

「だれかにもたせたいと思う欲望をもたせること、つまりその思考や欲望の制御をとおして服従せしめること、それこそが思考の権力行使」(『現代権力論批判』未來社、1995年)

 

セクハラの問題点は「撥ねつける権利のなさ」

このような権力はいたるところにある。人が集団生活を営む以上は、そもそも権力をなくすということが不可能だが、時に権力は暴走して、ハラスメントや暴力事件を引き起こす。私は2018年5月、文春オンラインで『「どこからどこまでがセクハラ?」と悩むあなたへ――2018年のセクハラ問題の本質』という記事を配信し、その中で次のように書いた。

「セクハラは男女関係だけの問題じゃなく、たいていの場合にはその裏側にある力関係と一体化している」「セクハラも、性的な言動そのものが問題なのではない。その言動を伝えた相手との間に強い権力関係があり、女性の側に『撥ねつける権利」がないからこそ問題なのである

さて、このようなセクシャルハラスメントについてここ数年、多くの人が言及している問題がある。それは著名なジャーナリストのハラスメント疑惑が続発していることだ。

口火を切ったのは、2016年に週刊文春、週刊新潮が相次いで報じた鳥越俊太郎氏の女子大学生淫行疑惑だった。報道によると、2002年に鳥越氏は女子大学生を別荘に連れ込み、拒む女性にキスし、全裸にしたうえで淫らな行為に及ぼうとしたが、女性の抵抗にあって未遂にとどまったという。ただし鳥越氏はこの件を事実無根であると否定し、名誉毀損などで両誌を東京地検に告訴している(いずれも不起訴)。

そして昨年末、パレスチナ難民など中東取材などで知られるフォトジャーナリスト広河隆一氏の性暴力疑惑がやはり週刊文春によって報じられた。職場の女性スタッフなど7人に性行為を強要したり、ヌードの撮影を求めたりしていたという。この報道に対して広河氏は、「気持ちに気づくことができず、傷つけたという認識に欠けていました」とする謝罪文を公表している。

さらに今月になって、フォトジャーナリストの久保田弘信氏が酷いハラスメントを行っていたことを、学生時代に海外の紛争地に同行取材したという女性がnoteの記事で告発した。この記事に一部が一致する内容を、「国境なき医師団」の看護師の女性もFacebookに投稿している。ちなみにこれらの投稿に対して久保田氏自身は声明などの発表はしていない。
 
この3人はいずれも人権派と目されてきたジャーナリストだ。世の中には見るからに性欲と権力欲にまみれているような人物も少なからずいるが、「人権派ジャーナリスト」というのは常に虐げられた側に立つ存在であり、そういうものからは最も遠いと思われてきたはずだ。それがなぜ、相次いでハラスメント事件を引き起こすのか。

これら事件を本人の性格的な問題(もともとそういう人だった論)に帰するのは簡単だが、それだけではなく、日本のジャーナリズムの構造的な問題が潜んでいるのではないかと私は考えている。