市役所の職員がつくる労働組合の委員長、窪田憲志さん(48)も同じ意見だった。窪田さんは2000年4月、浩さんが亡くなった翌月に労組の専従の役員になった。それ以来3年間、浩さんの死が公務災害として認められるように活動を続けた。このときの経験が原点になり、今も委員長として役所の組合活動の中核を担っている。

当時労組が調べたところ、驚くほど多くの職員が条例改正などで浩さんに相談をもちかけていたという。窪田さんは反省を込めてこう語っている。 

「塚田さんは仕事がきっちりしているという認識をみんなが持っていましたから、なにか分からないことがあるとすぐ、『塚田さんにみてもらおう』となったんだろうと思います。残念ながら当時の市役所の管理職や労組は、職員を守るための目配りができていなかったのです」  

市役所の職員の死が公務災害にあたるかどうかは、「地方公務員災害補償基金」(以下、基金と書く)という組織が決める。浩さんの公務災害を認めたときの書類に興味深い記載があったので、紹介したい。基金は、浩さんの忙しさをはかる材料の一つとして、地方分権一括法にかかわる条例改正でほかの自治体の文書係の職員がどのくらい働いたかを調べていた。それによると、「係長が100時間残業した」という市もあったが、「30時間くらい」「特に忙しくなかった」と答えた市もあった。 

つまり、こういうことだろう。条例づくりが立て込んだのは、どの自治体も同じだった。一方、ほかの部署との連携を深めたり、可能な範囲は民間業者に委託したり、といった対策をとったかどうかで、文書の係の職員たちの負担はかなり違ってきた──。こうしたことは過労死をゼロにするためには常に肝に銘じておかなくてはならない。 

「仕事に行ったらあかん」ていうんや

浩さんが亡くなったばかりの頃に話を戻したい。 

当時まだ6歳だったマー君は、悲しみにくれる母美智子さんを懸命に支えた。 
たとえば、こんなことがあった。 
パパがいなくて、僕悲しいわ」 
マー君がそうつぶやき、ポロポロ涙を流したことがあった。我が子が泣いているのを見ると、それまで気丈に振る舞っていた美智子さんもたまらなくなり、「ホンマやな」と大泣きしてしまった。 

自分が泣けば母を苦しませると、そのとき悟ったのだろう。 

母の号泣を目にした途端、マー君は急におかしな顔をして母を笑わせようとした。それ以来、マー君は母の前で泣かなくなった。小学校で嫌なことがあっても、姉とけんかしても、一切涙を見せなくなった。  冒頭に紹介した「ぼくの夢」を口にしたのも、そんな頃だった。 

少しでも日常を取り戻すため、美智子さんは夫が亡くなる前と同じように暮らすことを心がけていた。その日は小学校から帰ってきたマー君と二人でテレビを見ていた。いろいろな仕事を紹介する番組だったと美智子さんは記憶している。 

「マー君は大きくなったら、なにになりたい?」 

何げなくこう聞くと、すぐに答えが返ってきた。 
大きくなったら博士になりたい。博士になって、ドラえもんに出てくるようなタイムマシンをつくる」 

子どもらしい可愛い夢だと美智子さんの頰は自然に緩んだ。けれども、マー君が発したその先の言葉に、美智子さんは心を大きくえぐられた。  

ぼくは、タイムマシンにのってお父さんの死んでしまうまえの日に行く。そして、『仕事に行ったらあかん』ていうんや」 

美智子さんは溢れる涙を止めるのに必死で、「博士になりたいんやなあ。すごいなあ」と答えるのがやっとだった。美智子さんはふり返る。 

「マー君も上の娘も、ほんまの子ども時代をなくしてしまって、無理やり大人にされてしまったような気がします。お父さんに、もっと甘えさせてやりたかった。そしてもっと自分なりの、子どもらしい夢をもたせてやりたかった。あの子たちには、そういう当たり前のことをさせてあげられなかった。それが本当に申し訳ないです」 

以下は美智子さんから聞いたマー君の近況である。 

悲しみにくれる母を支えながら、マー君は立派な青年に成長した。成人式の日、家族でビールを飲んだ。浩さんもお酒が好きだったのを思い出し、「お父さんとも飲みたかったな」と、つぶやいたそうだ。父と遊んだ記憶は、少しずつ薄らいできているという。 

「タイムマシンをつくる」と言った頃から、マー君は科学の本をたくさん読み始めた。小学校高学年になると、顔をしかめて「タイムマシンは難しいみたい」と美智子さんの前でつぶやいたこともあった。そうしたことが下地にあったのか、理系の大学に入り、大学院にまで進んで、新薬の開発などの研究をしてきた。2018年の春、民間企業に就職。タイムマシンはあきらめたが、別のかたちで誰かの「命を助ける」という目標を持ち続けているという。  

息子が安心して働ける、過労死のない社会になってほしい」 それが美智子さんの切なる願いだ。  

橋本市役所の広報担当者はわたしの取材に対し、以下のように回答している。 「ご冥福をお祈りし、このような残念な事案を二度と起こさないよう、全職員が一丸となって再発防止に取り組んでいく」  

 *紹介した方々の氏名については、本人の要望等に即して適宜仮名やイニシャルで表記しました。年齢は取材当時です。亡くなった方の勤務先企業名については、労働基準監督署や裁判所で死亡と仕事との因果関係が認められた場合に限り、実名で表記しました。

新聞社に勤めているわたしは駆け出しの頃、毎日早朝から深夜まで働いていました。わたしにとって過労死は、「他人ごと」だったのです。考え方が変わったのは、過労自死で父を亡くした小学1年生のマー君の詩、「ぼくの夢」と出会ったおかげです。生まれたばかりの息子の顔が、頭をよぎりました。わたしがいま死んだら、息子は、妻はどうなる? 命より大切な仕事なんてあるのか? そのとき、わたしの中で過労死は「他人ごと」から「自分ごと」に変わったのだと思います。――サービス残業ばかりだったスーパー店員、新入社員の24歳など、多くの方の遺族に牧内氏が寄り添いながら取材をし、冷静な視点でまとめた一冊。