「仕事を辞める」と考えられない極限

私は、のちに浩さんの母親の冬子さん(仮名)に案内してもらい、この紀見峠を訪れた。

当時は峠道の途中に車が方向転換できるちょっとした空き地があり、浩さんはそこに車をとめていた。車内に残されていた遺書はこの場所で書かれた可能性が高いという。美智子さんや上の女の子宛ての文章もあったが、そのうちマー君にあてて書かれたものをここに紹介したい。 

親らしいことが何もできず許して下さい。貴方の無邪気な顔をみていると、本当に疲れがやすまりました。先週の発表会を見に行きたかった。お母さんから、貴方がものおじせず、堂々と話をしているのを聴いて、本当にうれしかったです。笑顔のマー君(※本当は実名。筆者注)の顔が忘れられない。こんな幼い子を残して、お父さんは! どうか、お母さんの言うことをよく聴いて、助けてやって下さい。本当に御免なさい〉 

愛する家族の存在があっても生の世界に踏みとどまることができない、浩さんの絶望的な気持ちが、この文面にあふれている。ここからはわたしの想像だが、亡くなる最後の瞬間まで、浩さんの心には「生きたい」という気持ちが残っていたと思う。それでも生き続けられないほど、疲れ果ててしまったのだろう。命のガソリンを使い尽くしてしまったのだろう。 

過労死、過労自死の記事を書いていると、「死ぬくらいなら仕事を辞めればよかったのに」という感想を聞くことがある。いわゆる「自己責任論」の一つだと思うが、よく考えてみてほしい。塚田浩さんの心身がもし正常な状態だったら、こんなに愛すべき家族を残して命を絶つわけがない。この峠に立ったとき、浩さんは「仕事を辞める」という選択肢が頭に浮かばないほど、深刻な心の病(うつ病)に陥っていた。それは間違いない。そんな状況の人に自己責任論を振りかざしても意味がない。もっともっと手前、働きすぎで心の病にかかる前に、手を打たなければならないのだ。 

組織の〝ナメクタさ〟が過重負担を生んだ?

 亡くなってから3年以上たった2003年年12月、浩さんの死は公務員の労災にあたる「公務災害」と認定された。仕事が原因で亡くなったことが、公式に認められたということだ。ではなぜ、死ぬほど働かざるを得なかったのか。わたしは美智子さんに紹介してもらい、浩さんのかつての同僚たちを訪ねた。  

「一生懸命働いていた塚田さんを、わたしたちが頼りすぎてしまった」 そう言ってうなだれるのは、橋本市で保健師をしていた山本富代さん(71)だ。浩さんが亡くなった頃の忘れられない出来事があるという。 

亡くなる前月、2000年2月のことだった。感染症予防法という法律が国会で成立したのを受け、関係する市の条例も改正する必要があった。浩さんからその件の問い合わせを受けたが、市役所勤務の保健師たちは詳しいことが分からず、山本さんは「細かいこと分からへんから、県に聞いてくれるか」と答えた。 

数日後、市役所で浩さんと偶然顔を合わせた山本さんは、気軽に「この前のこと、分かりましたか?」と聞いてみた。すると、浩さんが激高したのだ。

「もう知らん。条例改正は関係する課が責任もってするもんや!」 

いつも物静かな浩さんの大声に、山本さんは心底驚いてしまった。なんと返答してその場を離れたかはよく覚えていない。しかしその後、「塚田さんの言うとおりやなあ」と何度も反省した。保健師も忙しかったが、条例を何十本もかかえている文書係にしてみれば、一本ごとに細部を調べていたら時間がいくらあっても足りなかったはずだ。そのことをいつか謝ろうと思っているうちに、浩さんは亡くなってしまった。 

優秀な職員に命を落とさせた責任は、市役所に勤めていたわたしたち一人ひとりにあるのではないか──。山本さんは今もなお思い悩んでいるという。 

「市役所という組織の構造的なナメクタさが出てしまったのかもしれません」 

ナメクタ、ナメタとは、いい加減、めんどくさがり、という意味の方言だという。各部署がそれぞれの仕事にもっと責任をもって臨んでいれば、浩さんが追いつめられることはなかったのではないかと、山本さんは考えているのだ。