ついに超えてしまった〝限界〟 

この頃の浩さんの頭には「なんとか三月議会までがんばろう」という思いがあったはずだ。2000年の三月議会には地方分権の関連だけで16本の条例案を提出する予定だった。この議会を乗り切れば少しは仕事が楽になる見込みがあったのだ。 

ところが、三月議会の直前になって、文書係が必死に作った条例案の一部にミスが発覚してしまう。部下が担当した部分だったが、浩さんは大きな責任を感じていた。もともとギリギリの状態だった浩さんの心は、このアクシデントをきっかけに、さらに暗い淵へと沈んでいった。 

2000年はうるう年で、2月29日があった。この日の朝、起きてきた浩さんがとてもしんどそうだったので、美智子さんは「無理せんと休んで」と必死に頼みこみ、もう一度寝かせた。家族がいるとよく眠れないと思い、起きてきた時のための食事だけ用意して、美智子さんはあえて外出することにした。電話も留守電にしておいた。夕方ごろ帰ると、浩さんはぼんやりと横になったままだった。 

「すごくしんどそうだけど大丈夫? 明日も仕事を休んでゆっくりしてよ。体どこか悪いんと違う?」
美智子さんは心配でたまらなかった。

 翌3月1日は、朝から快晴だった。 

午前8時ごろ、車のエンジン音が鳴り、美智子さんは夫が出かけることに気付いた。あわてて玄関に立つと、銀色のセダンが車道に出るところだった。声をかける時間はなく、ウィンドウ越しに後ろ姿がちらっと見えただけだった。「行ってきます」の挨拶もないまま、浩さんは家を出て行った。これまで13年間の結婚生活で一度もないことだった。 

とても心配だったものの、無事に帰ってくるのを待つ以外に美智子さんにできることはなかった。マー君を幼稚園に送り届けた時、ふと見上げるとぬけるような青空が広がっていた。せめて帰宅した浩さんにサッパリした気分になってもらおうと、美智子さんは夫の布団をベランダに干した。  

だが、自宅を出た浩さんはすぐそばの交差点を市役所とは反対の方向に曲がったようだ。向かった先は、大阪府との境になる紀見峠だった。数時間後、浩さんはこの場所で、自らの命を絶った。 

現場近くにとめてあった浩さんの車内からは、大学ノートが一冊見つかった。その中には家族や親戚、同僚らに宛てた遺書が残っていた。当時の市長宛ての遺書もあり、そこにはこう記されていた。 

何もかも押しつけられた状態で本当に苦しい毎日でした。私に相談にくる職員が何十人もいるが、私には相談できる人がいなかった。(中略)部下もいっしょう懸命にやってくれたが、最初から、自分でやれば良かったと今思う。もう、疲れて、修正案を考える気力がなくなった。申しわけない。仕事が多すぎ、そこまで詰める余裕がなかった。もはや、死んで、おわびするしかない。お許しください〉