自己申告書に〈非常に苦しい〉

最初の不調は99年4月の胃潰瘍だった。心労が重なったものとみられ、2週間の病気休暇をとったあとも、医師からは「さらに静養すべき」だと強く勧められた。だが、浩さんは「出勤する」と言い張った。 

「お父さん、命と仕事とどっちが大事なの? お願いだから休んでほしい」 
美智子さんは必死で止めたが、浩さんはあきらめ顔で首を横に振った。 

あの仕事の山を思い出すと家でゆっくりと寝てられない。余計ストレスがたまる。すまん。頼む。仕事に行かせてくれ」 

案の定無理がたたり、半年後の11月には胃潰瘍が再発した。それでも浩さんは痛みをこらえ、休まず働き続けた。疲れているのに眠れず、睡眠導入剤に頼る日々が続いた。 

「夢の中でも仕事をしているみたいに大声で寝言を言っていました。電話の応対だったり、条例のことを説明していたり。はっきりとした大きな声でした」(美智子さん) 

本人も限界に達しつつあることを気づいていた。亡くなる1カ月余り前、2000年1月末の自己申告書にはこう書いていた。

自分の能力以上のものを求められており、非常に苦しい立場にある。体調を崩しており、大きな失敗をしないうちに異動したい〉 

もはや心身ともに追いつめられていたのだ。

やってもやっても終わらない書類

2000年3月の議会に提出する条例案は山のようにあった。夜の8時、9時ごろまで役所で働いても到底さばききれず、帰宅後も1時間ほど休んでから深夜1時ごろまで書斎にこもった。翌朝は5時起床。一日の睡眠は長くて4時間ほどだった。亡くなった後に認定された直近1カ月(2000年2月)の残業時間は117時間だったが、家での仕事を含めた遺族側の計算では200時間近くにのぼっていた。 

子どもたちとふれあう時間は、ほとんどなくなってしまった。浩さんが忙しいことは子どもたちも理解していた。休日になるとマー君は「お父さんは寝ているから」と言って自分から外に遊びに行くようになった。2月に幼稚園の発表会があったが、市役所勤めのほかのお父さんは見に来ていたのに、浩さんは来られなかった。そのときもマー君は文句一つ言わなかった。