細い体、白くなった髪。富美子さんは淡々とした口調だったが、意外に早口だったことを覚えている。時折見せる笑顔に気品がただよっていた。
「私の描いていた老後の楽しみもある意味では奪われてしまいました。たいしたことじゃないけれど、私は焼き物が好きだったんです。美智子も焼き物は好きでした。だから、孫たちにいつの日か“焼き物を教えて”っていわれるようなおばあちゃんになりたかったんです。
こういうことは理屈じゃないんです。できないこととはわかっていても、年をとるにつれて自分の夢だったことへの思いが強くなって……。
もし、美智子のことがなかったら、私は今も趣味のなかに、カメラと焼き物があったと思うわ。ふたつばかり、楽しみを奪われたということかしら」
応接室の暖炉の上には、小さなお雛さまが飾られていた。富美子さんは、そのお雛と、め雛に背を向けて座っていた記憶がある。
「最高の縁組みと、最適の縁組みとは違うんですよ」
そう富美子さんはぽつりともらした。僕に説明するためというよりも、自分自身に向けたようなつぶやきだった。
「本当にいろいろなことで苦しみました。ひどいこともされました。どうして私たちが……と、あの頃はそう思い続ける毎日でした」
と続ける富美子さん。
まだまだ報道や取材をめぐる嫌な記憶があったのだろうか。そのことをうかがうと、そうではないという。
「誰に」「誰から」ということは明かしていただけなかったが、婚約からご成婚への過程で富美子さんや、美智子さまの父・正田英三郎さんが受けてきたことであるという。“ひどいこと”とは、どんな出来事だったのだろうか。
「それはお話したくありません。ごめんなさい。その当時の日記だってもう読み返したくないんです。今もちゃんと残してありますよ。あの頃のものもね。そんな話をどこからかお聞きになって、私の体験したことを本にしないかという依頼は何回もありました。
でも、それはごめんだわ。あんなにつらい思いは絶対に人さまに知っていただきたくありません。
でも、もし、私が当時のことをありのままに書き記したり、また明かしたりしたら、そこに出てくる人たちは皆、こうおっしゃるでしょうね。“正田のばあさんは気が狂った”とね。それほどのことをされてきたということかしら……」
富美子さんが、ここまでご自身の思いの丈を話すとは想像もしていなかった。穏やかならざる言葉まで飛び出した。
「もし私が、日記を公表すれば少なくとも100人以上の方にご迷惑がかかると思います。そのうちの50人近くの方はすでにお亡くなりになりました。でも、ご健在の方はきっとお困りになるでしょう」
当時の僕は、まだ30歳そこそこの記者だったが、美智子さまにさまざまな“いじめ”があったことは承知していた。
●手袋事件=ご婚約内定時の美智子さまの手袋が、ひじの隠れる手袋ではなく、作法にかけるものであるという批判がおきた。のちに、この手袋は、宮中関係者がわざわざ正田家に届けたものであったことがわかり、“宮中保守派による、皇太子妃いじめ”とされた。
●宮中保守派クレーム事件=浩宮さま誕生後、宮内庁病院から退院される際、車中の美智子さまは皇太子さまを抱き、ガラスの窓を開けてカメラマンの撮影に応じた。時は2月末。報道陣のリクエストを受けた宮内庁の要請でそうしたにもかかわらず、宮中保守派からは、“妃殿下が新宮様を人前で抱くということはありえない”“窓を開けて風邪でも引いたらどうするの”との批判が巻き起こったのだという。
●香淳皇后さま無視事件=1975年(昭和50年)、昭和天皇、そのお妃である香淳皇后が初めて米国訪問に出発される際、美智子さまは皇太子殿下(当時)はじめ、各皇族方とともに羽田空港でお見送りされた。タラップ前のひとときはテレビで生中継され、両陛下はひとりひとりに挨拶しながら進んで行く様子が映る。
だが、美智子さまの義母にあたる香淳皇后は、なぜか美智子さまに一瞥もくれずそのまま素通り……。それ以前からささやかれていたが、香淳皇后や女官らによる“美智子妃いじめ”が証明された事件と伝えられている。
富美子さんは、こうしたことの背景をお話ししたかったのかもしれない。