美智子さまの亡き母・正田富美子さんが生前語った「驚きの回想」 

富美子さんの後悔と無念とは
沢田 浩 プロフィール

美智子さまと母・富美子さんをつなぐ、白い花

この公園が「ねむの木の庭」と命名されたのは、美智子さまが10代のときに書かれた詩「ねむの木の子守歌」に由来する。美智子さまのご実家である正田邸が、かつてこの地にあったからだ。

2004年(平成16年)の開園。父・英三郎さんが1999年(平成11年)に亡くなったのち、相続税の一部として国に物納された土地を品川区が取得して、美智子さまにゆかりの木々や花を植え、公園として整備した。

ヤマボウシは、ミズキ科の高木で樹高は10メートル以上にもなる。花びらのような白い総苞(そうほう)が、頭巾をかぶった山法師に似ているところが、その名の由来という。開花期は初夏から梅雨どきにかけて、四片の白い可憐な総苞が空を照らすように高木を覆う。だから「四照花」。

東京都五反田の正田邸跡地

美智子さまの御歌を集めた歌集『瀬音』によれば、1988年(昭和63年)の5~6月に詠まれた歌であることが想像できる。さらにその3年後の1991年(平成3年)にも美智子さまはこの、ヤマボウシを再び歌にされている。

「この年も母逝きし月めぐり来て四照花咲く母まさぬ世に」

美智子さまと母をつなぐヤマボウシ。かつての正田邸で母娘がいつも愛でていた木なのだろうか。

「正田邸があった時、お庭にヤマボウシの木があったのかはわかりません。ですが、美智子さまと母・富美子さんの共通の思い出がある木なのでしょうね」

かつて御所の中の人に尋ねた時、そんな言葉が返ってきたことを思い出す。と同時に、かつて会った正田富美子さんの記憶もよみがえっていた。

老境を迎えた皇太子妃の母の本音が爆発し

その正田邸で僕は、正田富美子さんにお目にかかったことがある。亡くなる3年前、1985年(昭和60年)3月4日のことだった。

その前年、美智子さまのご結婚25周年の前後から、僕は富美子さんに何度か連絡を取っていた。お手紙を書き、電話も重ね、美智子さまを皇室に送り出してからの折々の思いを寄稿していただこうと試みた。

結果からいうと、この依頼はお受けいただけなかった。だが、何度目かの依頼の際、富美子さんは直接会ってくださり、僕に「お受けできない事情」を説明してくれた。それは2時間にも及び、老境を迎えた母の胸の内の本音が爆発し続けた時間だった。

 

亡くなられた折、僕が記者をしていた「週刊女性」でもそのことを記事にした。“美智子さまの母が本当に語ったことなのか”と、デスクには何度も念押しされたほど壮絶な内容だった。今あらためて、当時の取材ノートから再現してみる。

「そういつの日からだったでしょうか。朝起きて窓を開けると、庭の塀の外からもうカメラマンがカメラを構えているんです。四六時中です。私はあの時から、カメラが大嫌いになりました」

正田邸の玄関を入ってすぐの応接室。暖炉の前のソファに座った和服姿の富美子さんは背筋をピンと伸ばし、美智子さまが皇太子妃に内定した頃からの出来事を振り返っていた。初めは当時の報道への不満からだった。

ご成婚当日のご家族。左から、父・正田英三郎氏、母・富美子さん、美智子さま

「私はもともと大がつくくらいにカメラが好きでした。子どもたちのスナップを撮ってきたのも昔から私でしたし、8ミリだって撮影機が出たばかりのものをすぐに買って、私が撮っていたんです。性分なんですよ。子どもたちにきちっとしたものを残してやりたかったんです。

でも、それがカメラに追われる立場になると、もういやでいやで見るのも嫌になってしまいました。

漠然とですが、2人の息子と2人の娘が成長して孫が生まれたら、8ミリを回すようなおばあちゃんでいたいと思っていました。でも私は、あの日からカメラを捨ててしまったんです」