この写真も「不文律」への挑戦だ(東京藝術大学にて撮影)

「徘徊もスマホもOKな授業」で学生たちはリテラシーに覚醒した!

東大教授にお題エッセイを頼んでみた
「無茶ぶり」エッセイ、今月のお題は「不文律」。水越伸先生は、教室の中にある不文律をたたき壊して、その先に「メディア・リテラシー」の意味を展望する。

再びブームを迎えたメディア・リテラシー

メディア・リテラシーがしばらくぶりに流行りつつある。

メディア・リテラシーとは、メディアを介したコミュニケーションを意識的にとらえ、批判的に吟味し、自律的に展開する営みや、そのための術や素養のことである。

リテラシーとは文字の読み書き能力、識字力のこと。メディアを文字のようなものとして、比喩的に言い表した概念なので、メディア・リテラシーはよく「メディアの読み書き能力」と言われる。

かつては、青少年がテレビや新聞の中身を鵜呑みにせずに批判的に読み解くための能力のようなことを意味していたが、今では老若男女、あらゆる人々が本からSNSにいたるさまざまなメディアを批判的にとらえ、自律的に関わり、能動的に表現するために必要な営みとされる。

1990年代後半から約10年間、メディア・リテラシーはやはりブームを迎えていた。インターネットや携帯電話といった新たなメディアが普及し、それらとどのように付き合えばよいかがさかんに議論され、テレビ局をはじめマスメディアのヤラセやスキャンダルが問題となった時代だった。

同時に学校に総合的な学習の時間が設けられ、そこでの教育内容としてメディアに関心が集まったことも大きかった。

「フェイクニュース」は概念自体が取扱注意!

あれから10年以上が経った今回のブームの背景にはなにがあるのか。

ずばり、フェイクニュースの登場である。

ネットにはフェイクニュースがあふれていて、あちこちで問題が起こっている。それらにだまされない方法はないものか。そういう声があちこちであがり、フェイクにだまされない能力ということでメディア・リテラシーの再召還となったわけだ。

もちろんネトウヨにどう対処するか、AIやロボットとどのように付き合うか、プログラム教育をいかに進めるかなど、メディア・リテラシーが必要とされる課題はいくつもある。しかし単純明快で強いインパクトを持つのはフェイクニュースだった。

しかしこのフェイクニュースという概念そのものがくせ者である。

まず、フェイクニュースがなにを指すのかはキチンと議論されていない。

もともとフェイクニュースとは、2016年の米国大統領選挙でトランプ陣営に加担しクリントン陣営を攻撃する、まったくでたらめなニュースがまき散らされた現象をさして話題となった言葉だ。それらのニュースサイトは、東欧マケドニアの若者たちによって、政治的な意図もなく、たんなる金もうけのために立ち上げられていたのだった。

ところが現在では、テレビや新聞の誤報やツイッターのデマまで幅広くフェイクニュースと呼んでしまっている。

誤報は誤報であり、デマはデマでそれぞれの概念に定義があるのだが、それらを十把一絡げにしてフェイクニュースと言い切る。この単純明快さが好まれる背景にはポピュリズムがあるのだろう。

ユネスコなどではフェイクニュースは誤解を生みやすい概念だということでディスインフォメーション(disinformation)と呼ぶようにと提唱しているが、この言葉でさえ僕に言わせれば概念としては軽く、危うい。

さらに問題なのは、フェイクニュースという言葉を誰よりも頻繁、かつ戦略的に用いてきたのがドナルド・トランプその人だということだ。

数々のスキャンダルや疑惑にまみれた米大統領が、CNNをフェイクだと一刀両断にするそのインパクトは凄まじい。なにがフェイクでどこが問題なのかもはっきりしないまま、メディア環境に対するぼんやりした不安や不満からフェイクニュースという単語が連呼される。

ジャーナリストや研究者もこの言葉を使うことで、結果としてフェイクニュース・ブームに加担してしまう。

それを解消する良薬がメディア・リテラシーというわけだ。まことに面妖な話である。

「フェイクニュースにだまされない」という一見もっともらしい、常識的な物言い。その常識的な物言いに振り回されない見識こそが、メディア・リテラシーではないのか。

チコちゃんに叱られてもむずかしい常識の揺さぶり

メディアを批判的に読み解いたり、それを介して能動的に表現する術や素養は、どうすれば身につけることができるのか。