〈あくまで思考実験です〉スピード違反は何キロまで許されるのか?

東大教授にお題エッセイを頼んでみた
佐倉 統 プロフィール

AIの研究者も技術開発者も、忙しい。やるべき研究課題は山積みしている。そんなときに、何も好き好んでAIに不得意な判断力を付けさせる技術開発をすることのメリットがわからない。

今のところは、まったくないし、今後もまず生じないだろう。

もう少し思考実験。《不文律1号》登場!

その技術開発のインセンティブは問わないことにして、あくまでも仮定というか純粋に理論的な話、ともあれAIに不文律を学ばせることができて、AI搭載ロボット《不文律1号》が製品化されたとしよう。

そのような《不文律1号》はとてつもなく高価だろう。それでいて、できることは人間の社会的判断と大差ない判断を下すことだけだ。

つまり、「うん、ここの家に上がるときは靴を脱ぐべきだな」とか、「制限速度は時速15kmオーバーぐらいまでは、時と場合によるけど、ま、お目こぼしされるだろう。ぐらい、ってどれぐらいなのか、ちょっと微妙だけど」、という判断ができるだけのことである。

なにが悲しくて、大枚はたいてそのようなAI搭載ロボットを買わなくてはいけないのか? いや、かなり安価であったとしても、やっぱり売れないだろう、《不文律1号》は。

だいたい、機械だの人工物だのというのは、人間が自分でできないことをやってくれるから意義があるのだ。

この「できないことをやる」には、人ができることをさらに巧妙に/早く/確実にやる」も含まれるけれども、人間ができることを人間と同じ速度・精度で代行してくれても、ありがたみはあまりない。その不文律が必要とされる社会での人手不足解消には貢献するかもしれないが、制限速度超過のおおよその目安を人間と同程度に推測できても、今のところは御利益はほとんどない。

「Society 5.0」の危うさ

複雑な社会学習で不文律をマスターすることは人間のほうが得意なのであれば、そこは人間が担当して、AIにはもっと別の、AIが得意な作業をガンガンやってもらったほうが、よっぽど良いと思うのだ。

人間とAIの共存。月並みであるが、結局話はここに落ち着く。しかし、当たり前なのだ。他に選択肢はないのだから。

別に難しいことではないと思う。AI以外の機械に対しては、人間は常にそういった距離感で付き合ってきている。高速で目的地に到達したいときは、自動車や電車や飛行機で移動する。走ることそのものを競ったり楽しんだりするときは、生身の人間が競走する。どういうときに機械を使い、どういうときに人間のままでいるか、使いわけが定着している。

もちろん、蒸気機関車がはじめて登場したときはバケモノのにように思われたり、自動車は凶器のようにいわれていたりもしたようだが、これらの「当時の最先端技術」も、時と共に人々に受け入れられ、社会になじみ、定着して、今ではなくてはならないものになっている。

AIとも、そういう付き合い方をするのがいいと思う。

人手不足解消ということで言えば、自動運転は、完全自動は無理にしても、レベル4(高度自動運転)ぐらいは過疎地での交通機関としては意義もあるし、実用化の可能性も高いと思う。しかし、東京の真ん中のようなところで完全な自動運転車が走る意味は、ほとんどない。必要なのは、人間の運転者を適切かつ安全にサポートしてくれる支援技術(レベル1〜2)である(自動運転の自動化レベルについては、Wikipediaなどを参照)。

autonomous carPhoto by Getty Images

「Society 5.0」という標語は、この点で、ちょっと危うさをはらんでいるように思う。ぼくたちのSocietyは不文律で溢れているからだ。

しかしこれを逆手にとって考え直せば、Society 5.0が目指すべきは、AIやIoTで世の中ガンガン便利になりますよという話ではなく、こういった新しい技術を使ってどういう社会を実現していくかをぼくたちひとりひとり考える、そういう社会を実現することだ、とも言える。

日本社会は高度経済成長の時代は終わり、少子高齢化が急速に進んでいる。今までの「近代モデル」ではもはや社会は成立しない。低成長かつ人口減少社会の中で、人々が幸せに、かつ、そこそこ豊かに暮らせるように社会の仕組みを変えていかなくてはならない。

その新しい仕組み、あるいはそれを探していくこと、それがSociety 5.0なんだと、ぼくは思っている。

だから、AIがSociety5.0を実現するのではない。AIをどう使うか、AIと不文律をどう使い分けるか、それを考えるぼくたちが実現することなんだと思う。

「2×3」で東大教授にお題エッセイを頼んでみた 記事一覧はこちら