東京タワー開業以来60年続いたそば屋が静かに閉店した事情

「さつま」が見てきた昭和、平成の風景
竹田 聡一郎 プロフィール

美味しいものも流行も全部、東京が教えてくれた

竹下さんは、昭和14(1939)年、鹿児島県喜界島生まれ。20代まで鹿児島で過ごし、タワー開業のニュースも鹿児島で聞いた。

「ああ、すごいものができたんだな。やっぱり東京だなあ、と他人事だった。まさかそこで働くことになるとは」

 

初代である叔母さん夫婦が開業時に店を切り盛りしていたが、昭和44(1969)年に鹿児島の商社に勤務していた夫の龍男さんを説得し、一家で手伝う形で上京した。

「東京に殴り込みに行くからって、子供に久留米絣を着せて、私は大島紬を着て、一張羅でしゃなりしゃなりと上京したのを覚えています。今、考えれば怖いもの知らずでしたね」

創業当時の「さつま」

日本は高度経済成長に湧き、大阪万博(昭和45〈1970〉年)の特需もあった。

「忙しかったですね。働き始めてもなかなか展望台には上れず、しばらくしてから上って、『ああ、これが東京か』と思ったのを覚えています。忙しかったけれど景気も良かったですし、働いたらそのぶん収入のある働きがいはある時代でしたね。寮を出て我善坊(現在の麻布台付近)にマンションも買えて。美味しいものもファッションの流行も、私は全部、当時の東京に教えてもらいました」

また、場所がら、芸能人や有名人も頻繁に訪れたそうだ。

「前はすぐそこにテレビ局、テレビ東京があったから、局の人や芸能人もよく来てくれました。『長崎は今日も雨だった』の人、どなたですっけ? そう、前川清さんがいらっしゃったときは嬉しかったですね」

しかし、景気や立地に左右されず、「さつま」は地に足のつけた商売を続け、万人に好かれる味で勝負してきた大衆食堂だ。「とにかく人に喜んでもらうことは、手間を惜しまず全部、やった」と、慶子さんは夫の龍男さんの仕事を懐かしむ。龍男さんは店内で打つそばにこだわる一方で、自ら毎朝、築地に出向き新鮮な魚介を仕入れ「普通の美味しさ」と向き合い続けた。

若かりし頃の竹下龍男・慶子夫妻

株式会社東京タワー、マーケティング課の澤田健さんも「さつま」に通った常連客だ。

「ランチ時は混雑しているので、遅めの午後によく利用させていただきました。タワーに入っている流行の飲食店は美味しいですけど、行列していることも少なくないし、やっぱり毎日となると話が違ってくる。でも『さつま』は飽きませんし、そばと丼って毎日でも食べられる『普通の美味しさ』じゃないですか。

入社以来20年以上、何食、お世話になっただろう。はとバスさんの運転手さんやガイドさん、旅行会社の方々もよくいらっしゃってましたし、仕事を終えた上司が一杯やっていた光景も思い出されます。大切なテナントさんですが、家族という雰囲気もありました」