ウドー音楽事務所社長が明かす「大物ミュージシャンの素顔」

プロモーティング50年秘史

日本を代表する音楽プロモーターの「ウドー音楽事務所」が、創立50周年を記念した展覧会「海外アーティスト招聘(へい)の軌跡」を開催中。エリック・クラプトンが使用したエレキギターをはじめ、有名ミュージシャンのグッズや来日時のチケットなど200点以上が所狭しと並べられており、多くのロックファンが今日もあの頃の思い出に浸っている(有楽町マルイ8F特設会場にて、3月31日まで開催。詳しくはhttps://50th-exhibition.udo.jp/)。

この展示会の開催をいちロックファンとして心待ちにしていた武田砂鉄氏が、74年にウドー音楽事務所に入って以来「プロモーターひと筋」のTackこと高橋辰雄社長にインタビューを敢行。大物ミュージシャンの素顔とともに、知られざる「プロモーターの仕事の舞台裏」を赤裸々に語った――!(撮影/丸山剛史)

 

結局70年代にたどり着く

――この度、ウドー音楽事務所50周年記念展を開催した理由から聞かせてください。

高橋 日本における洋楽の歴史、もちろん、弊社が全てを手がけてきたわけではありませんが、弊社の興行を通じて「洋楽」を再検証してほしい、との思いが強くあります。この十数年、洋楽に元気がありません。

自分たちが自負しているのは、日本におけるロックは洋楽から始まっている、ということ。リズムに乗せる言葉としてまずは英語があり、そのあとで日本語のロックが出てくる。オリジナルを問えば、常に60〜70年代のロックに行き着くことになる。

今回の展示は、音楽の本質的な部分を探求してもらうものだと考えています。「音楽って何?」と問いたい。魂に響くもの、己がわかっている音楽は、その問いに答えることができる。そこがもっとも大切で、僕流の言い方だと「コンビニエンス・ミュージック」ではダメなのです。

――高橋社長は1974年に、アルバイトでウドー音楽事務所に入られたそうですが、強烈な洋楽体験としては、友達のツテで行ったレッド・ツェッペリンの71年日本武道館公演だったそうですね。

高橋 はい。ただ、ツェッペリンの武道館の前に、後楽園球場でのグランド・ファンク・レイルロードの雨の中のコンサートがありました。中には入れなかったので、外で聴いていたのですが、雨がざあざあ降ってきて、帰ってきちゃった。

この時代のコンサートは、記憶に残っているものが多いですね。たとえば75年のバッド・カンパニーの武道館ライブです。武道館のステージにあがり、下手から客席を見渡し、とにかく「でかいな」と思った。日本の洋楽の夜明けは、まさに自分が体感した1971年でしょう。

ブラッド・スウェット・アンド・ティアーズ、ピンク・フロイド、レッド・ツェッペリン、グランド・ファンク・レイルロード、ディープ・パープル、エルトン・ジョン、EL&P……弊社の歴史を振り返ってみても、ここから85年までの間は怒涛の来日が続きました。

――ウドー音楽事務所の歴史を知る中で驚いたのは、当初は、有名ナイト・クラブや米軍クラブなどに出演させる形態で事業をスタートしていたことです。

高橋 そうなんです。米軍の将校クラブにブッキングしたり、赤坂のコパカバーナなどにブッキングしたり……米軍基地は何カ所かかけ持ちしていたはずです。当時の日本には、音楽を専門にしたブッキングエージェントはありませんでしたし、海外にもあまりなかったんです。

プロモーターは当初「呼び屋」と言われていて、この呼び方は、社会からの見え方として低いものでした。うちの会社は「呼び屋」と呼ばれていた仕事を「招聘会社」へとイメージを変えた会社と言えるかもしれません。その後、次第に「プロモーター」という言い方も定着していく。自分たちがやったのは「呼ぶ」ではなく、「招聘」という形でした。

――「呼び屋」という社会的なイメージは、そんなによろしいものではなかったと。

高橋 そうですね。ただ、招聘招聘と言い続けているうちに、ある時、新聞に「招聘:ウドー音楽事務所」と書かれているのを見て、おお、ちゃんと招聘って書いてあるって驚いた記憶がありますね。ついに認められたか、と(笑)。

そうやって興行を繰り返しているうちに、ウドーはロック(の興行)に強い、日本でロックコンサートをやるならウドーだと、諸外国から黒船のようにして次々とやってくる。他のプロモーターとの棲み分けもでき、ロックが強くなっていく。こちらにはノウハウがあるので、契約した段階から海外の担当者と直にディーリングができる。イエス・ノーの判断が早いんです。

――アルバイトとしてウドーに入った高橋社長はまず、エリック・クラプトンの来日公演の現場に行かれたそうですね。

高橋 はい、74年のときに、研修のような形で。

――研修でクラプトン……。

高橋 初めて自分だけで担当したのが75年2月のウィッシュボーン・アッシュ公演です。ツアーマネジメント1人で、こちらも自分1人。2人でツアーに出て、右も左もわからず色々と教えてもらいましたね。

【PHOTO】gettyimages

――勝手なイメージですが、ウィッシュボーン・アッシュは、新人にも取り組みやすかったのではないかと。

高橋 いや、熱狂的なファンがすごく多くて、その対応に苦労した記憶がありますね。特にギタリストのローリー・ワイズフィールドがとてもかわいい顔をしていて、人気があったんです。どこへ行くにもお客さんがついてきました。

――過去のインタビューで、プロモーターの仕事はホテルマンに近いとおっしゃっていました。アーティストの要望に対して、まずは出来る出来ないではなく、イエスと言う。そこから、本当にノーな時に、どのようにしてノーを伝えるか、だと。

高橋 はい。ホテルのコンシェルジュであり、旅行会社のツアーコーディネーターであり、警備員でもあり、通訳でもある。

――当時は、ホテル側が「ロックバンドには部屋を貸したくない」と渋ることも多かったそうですね。

高橋 ジーパンでホテルに入るのは御法度、という時代でしたから。ロックというのはそういうイメージだった。66年のビートルズ初来日公演の時、僕は中学2年生で、チケットを手に入れていたのですが、親から「行っちゃダメだ」って言われて行けなかった。行く予定だったんだけど、その日、学校は中間試験。これ、全国的にそうだったんです。つまり、ビートルズは不良だから、と行かせないようにしていた。

――それは、行けなかった、で終わりなんですか。

高橋 そうです。チケット、どっかに行っちゃいました。家でテレビ見てましたよ。

――今ならば、様々なデータの取り方があると思いますが、70年代は、アーティストの興行規模を決めるのって、とてもリスクの高いものだったのではないでしょうか。

高橋 レコードの売上、レーベルの意気込み、メディアの盛り方を考えながら、エージェントと交渉し、会場の規模、どこの都市で何日間やるかを決める。そこからチケット代を案出していきます。当時はかなり博打的な要素も強かった。契約すると、先方からライダー(発注書・手配書)が送られてきます。

その中には、ホテルライダーとプロダクションライダーがあり、そして、チケッティング、セキュリティ、トラッキング、音響、照明、ステージングの演出等々が事細かに書かれている。それら全てに目を通し、日本の会場でもその要求通りにできるかどうかを検証していくわけです。

チケットを用意するのも私たちの仕事です。昔はコンピューターではないので、チケットを印刷し、スタンプで1、2、3、4…と番号をナンバリングしていきます。徹夜でナンバリングしたこともありましたね。

加えて、宣伝・告知関係。アーティストのプロモーション、ブランディングを画策し、10あるものをどうやって20に見せようかと考えていく。すでにできあがっている卵をどのように温めて孵化させて、より大きなものにしていくか。