脳と心は同じもの?人類最大の謎「意識のハードプロブレム」とは何か

「物質と非物質の関係」という難問
山本 貴光 プロフィール

「物質と非物質の関係」という難問

心と脳の関係に関して「意識のハードプロブレム」と呼ばれる問題がある。オーストラリアの哲学者デイヴィッド・チャーマーズが、心と脳の研究史を踏まえた上で、かつてそのように名付けた。

物質としての脳がどのように機能しているかという問題は、どちらかといえば「イージープロブレム」、解きやすい問題だ。といっても、誰でも簡単に解けるという意味ではない。次に述べる「より難しい問題」と比較して、という含意だ。現に脳についての研究が進むにつれて、その物質としての側面は徐々に明らかになってきている。

他方で、そうした「物質」であるはずの脳の働きから、どのようにして「物質ではない」はずの心、つまり主観的な意識という体験が生じるのかは、解くのが難しい。また前述したように、物質ではないはずの心が、物質である体を動かしているのだとしたら、いくら脳の中身を詳しく調べても、そのメカニズムは解き明かせないはずだ。これが「ハードプロブレム」というわけである(ここから「意識」という言葉も登場するが、先ほどまでの「心」と同じ意味だと考えてもらってとりあえず差し支えない)。

というのも、一方で脳の物質としての性質や働きは、客観的に観察したり記述したりできる。例えば、神経細胞がどのようにつながりあい、そこではどのような化学反応を基盤として電気信号が伝わっているのかといったメカニズムは現に解明されつつある。前述したfMRIのように脳の活動を画像に変換することもできる。

しかし他方で、こうした客観的な観察と記述をどこまで突き詰めていっても、それだけでは、この私の主観的な意識、私がまざまざと体験している意識の質感やその状態を説明できない。こういう指摘である。

 

そう言われて考えてみると、私たちはそもそも他人の痛みや喜びといった意識状態をかわりに体験することができない。自分の意識状態をそのまま他人に体験させることもできない。誰かの表情や言動のように外から見て取れる材料から、その内心を推測してみたり想像してみたりすることができるだけだ。

あるいは仮に、誰かが目にしている光景や耳にしている音と同じものをそのまま見聞きできたとしても、それだけではその人の意識状態を直接体験することにはならない。同じ映画を観ても、どこに注目するか、どのように受け取るかは人によって違うように、同じ知覚から人によって違う体験が生じる。人によって体の状態も違えば、過去に経験してきたことやその結果として記憶の状態も違うからだ。

例えば、ある音が耳に入ってきても、人によっては意味の分からない音声に聞こえたり、別の人にとってはロシア語の挨拶に聞こえたりする。こんなふうに考えてみると、そもそも誰かの意識状態を知るということ自体がどういうことかも分からなくなってくる。

誤解のないように言えば、だから脳科学はダメだといった話ではない。むしろここでも述べてきたように、現に脳科学は脳の仕組みや働きに関する知見を蓄積しつつあるし、それをもとにした各種の技術が実現してもいる。「意識のハードプロブレム」とは、角度を変えて言い換えれば、「現在のような脳科学の方法で解明できる問題と、そうした方法ではついに解明できない問題があるのではないか」という指摘だ。

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他方で、「意識のハードプロブレム」という指摘自体が擬似問題に過ぎないという批判もある。先ほど紹介したサールもそうした論者の一人だ。詳しくは『MiND』に譲るが、彼の主張を要約すればこうなる。

意識はなにも特別なものではなく、胃の消化や胚の減数分裂などと同様に、生物としての自然現象だ。意識はニューロンやシナプスといった神経生物学的な過程から生じる。そこからはみ出す心の現象など「ない」。だから現代の科学的な知見を踏まえ、それと整合のとれた説明を与えればよい。

ただし、意識はそもそも個々の人がそれぞれに経験する、いってみれば一人称の性質を備えている。他方で神経生物学などが解明したり共有したりする知識は客観的なもの、言い換えれば外から見た三人称的なものだ。この三人称的な説明の仕方では、一人称的な意識のあり方は説明できない。それだけのことである――という次第。

どうだろう。キツネにつままれたような気がするだろうか。それとも腑に落ちただろうか。