「日本列島が体の一部のような感覚」に陥った男が問う働き方と住み方

働くことと住むこと、どっちが大事?
村上 慧 プロフィール

日常化のバイアス

最後に、これを書いているいま発泡スチロールの家は金沢に置いてあって、僕の方は普通に家賃を払って借りている東京都三鷹市の物件にいる。

僕は発泡スチロールの家にだけ住んでいるわけではない。バカ族ではないけれど家が2種類ある感じだ。

だけど発泡スチロールの家で生活しているときは皆なぜかそう思い込んで「お金はどうしているんだ」と聞いてくる。これを読んでいる人もそう思ったかもしれない。

僕もこれを始めてからしばらくは、そうしなければと自分で思いこんでいた。続ける中で「べつにどちらか一つに決めなくてもいいのではないか?」と思うようになった。

拠点が複数あった方がむしろ落ち着いて生活でき、ご近所づきあいがうまくいったりするのと似ているかもしれない。

2018年7月19日釜山, 海雲台ビーチ(撮影:Can Tamura)

この社会において移動を日常的に行うことは、若さや、未熟さや、非日常的なできごととして受け取られる。ほぼ自動的に。

そしてそのような人の多くは、自分がそう受け取っていることに気がつかない。つまり自分がなぜそう受け取るのか、というところまでは考えない。

イマニュエル・カント風に言うと超越論的な考え方ができない。また「良い経験になるよ」や「若いうちだからできることだ」というセリフも頻繁に浴びせられる。

最初はこの言葉の意味がわからなかった。僕は小学生を見て「若いからおにごっこで遊べて良いなあ」とか「年寄りだからゲートボールができて良いなあ」などとは思わない。

これはたぶん「日常化のバイアス」がかかっているのが大きいと思う。僕たちの心にはなにか確固たる「日常とはこういうものだ」という無意識の思い込みがあるのかもしれない。

そして厄介なことに、その「日常」が自分の生活に由来している自分固有のものであることを忘れて、その幻想を他人にも投影してしまう。

そしてそこから外れたものに対して、違和感や嫌悪感を覚えたりする。そんな癖があるのかもしれない。もちろん僕も含めて。

 

でもその「共通の日常」なるものは幻想で、僕は敷地を借りることを通して、数百人の生活をそばで眺めたり、話を聞いたりしてきたけれど、他の誰かと同じ生活をしている人には会ったことがない。

ご飯を食べたりするなど生物としての活動はもちろん全員やっているけれど、それを除けば全員違う生活をしている。なので私は私の住み方をしており、それを必要に応じて変えながら生きていると思った方が楽だ。だから基本的に他人と自分の生活は比べようがない。

「家」について問うことは、この問題に向き合うことだ。

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